✣ 人生の一番若い日 ✣
「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け」(コヘレトの言葉11:9前半)。
「自分探し」という言葉があります。自分は何が好きで何が得意なのか、どんな仕事が自分に向いているのか、自分の人生においてだいじなものは何か、といったことに悩み、本当の自分を見つけようとすることです。青年時代は、そのように悩むことの多い時代です。悩むことはだいじなことで、コヘレトはそれを否定しません。しかし、若さも青春も「空」で、やがて過ぎ去ります。だからこそ、青年時代の若さを喜び、楽しみ、自分の心に適う道を歩めと励ますのです。
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(同上 12:1前半)。自分が神に造られた者であることを知ることは、やがて老いて死を迎えることを知ることです。この地上での生が終わる時から今を見ると、わたしたちは、今日が自分の人生の最も若い日であることに気づかされます。年齢にかかわらず、すべての年代の者にとって、今日という日が、人生で一番若い日なのです。わたしの若い日に、創造主に心を留めること、それは、今日から始まるこれからの日々を、神に造られた者としてどう生きるのかを自らに問い、神に与えられた一日一日を感謝し、大切にすることではないでしょうか。
●11月15日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 子どもたちといっしょに ✣
毎年、11月第2主日の礼拝で、子ども祝福式を行っています。今年は、コロナの感染拡大が収まらない中、とても残念ですが、地域の子どもたちへの案内は控えました。コロナの影響で、今日の礼拝に子どもたちの出席は少ないですが、教会につながりのあるすべての子どもたちを喜び、祈り、成長させてくださる神に感謝をささげたいと思います。
今日の聖書箇所には、子どもをイエスのもとに連れて来た人たちが、弟子たちに拒絶され、それを見たイエスが憤った様子が書かれています。イエスは、弟子たちに対して憤ったほどに、子どもを愛し受け入れてくださったのです。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」。当時、「女こども」は、神の国から遠ざけられている存在とみなされていました。しかし、イエスは、それとは真逆のことを宣言されたのです。
子どもは、社会的に弱い存在であり、未発達な部分を持ちますが、おとなより劣っている存在として軽視されるべきではありません。生きるためにおとなの助けを必要としますが、一人の人格として大切にされるべき存在であることを聖書から教えられます。人間は、助けられ、助ける存在です。主の助けを求めて祈り、子どもたちといっしょに育ち合っていきたいと思います。
●11月8日 子ども祝福礼拝 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ あしあと ✣
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主はささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
著者:マーガレット・F・パワーズ
財団法人 太平洋放送協会 発行『あしあと』から転載
今日は、先に主の許に召された方々、一人ひとりに命を与え、生涯を持ち運んでくださった主に感謝し、礼拝します。
●11月1日 召天者記念礼拝 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 神を畏れ敬えば ✣
「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざがあります。二つの物事を欲ばって同時に得ようとして、結局どちらも得ることができず失敗したり、中途半端に終わることを意味しています。一つに集中することです。
コヘレトは、それとは逆のことを言います。「一つのことをつかむのはよいが、ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば、どちらをも成し遂げることができる」(7:18)。コヘレトは、ここで、あれもこれも何でも適当にという、事なかれ主義を勧めているのではありません。「善のみ行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない」(7:20)と言うように、人間は、善と悪が百ゼロではなく、両義性をもっています。それゆえ、「神を畏れ敬えば」、両極端に走ることなく、どちらをも成し遂げることができる」と言うのです。
もう一方で、新約聖書の黙示録には、「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」という言葉があります。コヘレトと黙示録の言葉、矛盾しているようですが、どちらも真理であり、今、聴くべき言葉だと思います。
今日、格差や差別など多くの問題を抱え、自由や平和憲法が危うい状況の日本において、私たちは、キリスト者として、どこに立ち、どう生きるのかを、コヘレトや黙示録の言葉を通して考えさせられます。
●10月25日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 三つよりの糸は切れにくい ✣
「見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない」(コヘレトの言葉 4:1より)。強い者が弱い者を虐げる現実は、聖書の時代から数千年間変わらず世界を覆っています。
2018年度、在外研究でイスラエルとパレスチナに滞在しておられた濱野道雄先生(西南学院大学神学部教授)の現地からの発信に、こう書かれていました。「パレスチナの失業率は26パーセント(2016)ですが、家父長制の伝統の中、女性たち自身が収入を得ることは容易ではありません。パレスチナ経済悪化の理由は、占領下でイスラエルへの経済依存を余儀なくされていたところ、2000年頃からの自治区封鎖により経済も封鎖されたためです。さらに今年、アメリカが国連を通してのパレスチナ支援金を停止したため、その資金で運営されていた食料施設や学校などが運営できなくなり、新たな失業者を生み出しています」(女性連合『世の光』2018年10月号)。
抑圧され自由を奪われたパレスチナの厳しい現実の中で、女性自立支援のために23年もの間、イドナ村で働いている水本敏子さんと、日本でその働きを共に担っている「サラーム(平和)」というグループの人たちがいます。厳しい現実を抱えるイドナ村の女性たちですが、共に働くことで彼女たちに自信がわき、雰囲気は明るいといいます。両者を結ぶのは愛や友情。そこに神の働きがあり、互いが強められているのです。
●10月18日 週報巻頭言 牧師 村上 千代


