✣ 平和をつくりだす ✣
愛知県で開催されている「あいちトリエンナーレ2019」の企画展の一つ「表現の不自由・その後」が3日限りで中止に追い込まれました。この出来事は「時のしるし」です。
河村名古屋市長は、「あいちトリエンナーレには10億円を超える税金が使われているのに行政の立場を超えた展示が行われている」ことを問題として、「中止を含めた適切な対応」を大村愛知県知事に求めました。その後大村知事は中止を発表。テロ予告や脅迫を含むメール、電話が殺到したとして「芸術祭全体の安心安全、今後の円滑な運営のために判断した」と伝えられています。加えて菅義偉官房長官らが同展への補助金交付の差し止めを示唆するコメントを発表しています。
行政は、まずテロ予告等の脅迫行為を反社会的な犯罪として取り締まるべきです。行政・政権と異なる意見の表明を行政が許さないとするなら、税金使用の有無に関わらず、憲法21条に違反します。「一切の表現の自由は、これを保障する」(1項)、「検閲は、これをしてはならない」(2項)。これらは主権者に対する義務ではなく、政治権力(行政官や議員ら)をもっている者たちに対する義務です。むしろ政権与党こそ、税金を使ってでも異見や批判を歓迎するべきです。それが民主政治を成り立たせるのです。※連盟憲法アクションメルマガ32号より
●8月11日 平和祈念礼拝 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 私ではなく、神さまが ✣
今朝は、夏期学校に参加している小学生の皆さんと一緒に礼拝します。うれしいですね。皆さんにとって、教会での二日間が、楽しい思い出となることを願っています。
私は、子ども時代に一度も教会に行ったことはありませんでしたが、我が家から歩いて数分の教会には、当時、小・中学生がたくさん集まっていました。十数年前に高校同窓生のMLでその教会のことが話題になり、同窓生たちも教会に通っていたことを知りました。皆さんが教会での楽しかった日々を思い出し、懐かしんでいました。
ヨセフ物語に、えん罪で獄に入れられていた主人公ヨセフが、囚われていた給仕役の長に自分の無実を訴え、「あなたが釈放されて復職できたら私のことを思い出してほしい」と願う場面があります。ところが彼は、ヨセフのことを思い出さず、忘れてしまいました。しかし二年後に、ファラオの夢がきっかけで、彼はヨセフを思い出し、ヨセフの新たな人生が始まったのです。
人間って忘れるものです。夏期学校に参加の皆さんも、教会のことを忘れるかもしれません。でも何かをきっかけに教会を思い出し、教会に来てくれるといいなと思います。教会はいつでもあなたの居場所、それを知ってもらえたら嬉しい。
●8月4日 夏期学校・子ども合同礼拝 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ わすれられたヨセフ ✣
今月のはじめ、品川バプテスト教会山中臨在(ともなり)牧師就任感謝礼拝に出席した。
品川教会のルーツは1962年に遡り、伝道開始から57年の歴史をもつ教会である。「1962年8月11日付のキリスト新聞に、『福音不毛の地に、大井バプ教会の祈り実る、新教会発足』という見出しで、品川バプテスト教会の門出が伝えられていた」と、教会の50周年記念誌に書かれている。伝道所が開設された品川の荏原地区は、それまでいくつかの教会が伝道に着手したものの、戦争その他の理由で、いずれも途中で途絶えてしまい、牧師の間でも「教会不毛の地」といわれたところであったようだ。「しかし、この地で50年間、福音伝道を続けているのだから、もう教会不毛の地とは言えない」と結ばれている。まったくその通り。神にわすれられたかに思えたこの地は、決してわすれられてはいなかったのである。
教会の初期の頃、この地区には勤労青年が多く、教会が彼/彼女らの居場所、拠り所となり、そこからキリストに出会って教会につながる方々が起こされたと伺った。山中牧師を迎え、これからも青少年を励まし、全年齢層への福音宣教に仕え、品川から世界へと宣教のビジョンを掲げて歩み出した教会の姿にとても励まされた。
●7月28日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 失望のただ中に ✣
父親のヤコブに寵愛されていたヨセフは、兄たちの妬みと憎しみゆえにエジプトへ売られ、異国で奴隷にされ、彼の境遇は一変した。そればかりか、ヨセフは、彼を買い取った宮廷の役人で侍従長のポティファルの妻に陥れられて、奴隷の生活から、さらに投獄という苦難を味わうことになった。奴隷でありながら、主人であるポティファルに目をかけられて状況が好転したかに見えたのであるが、彼は再び奈落の底へと突き落とされたのだ。理不尽な監獄の生活を余儀なくされた彼は、今度は監守長の信頼を受けるが、先の見通しは立っていない。ヨセフの度重なる苦難の現実に対して、神は無言である。
今日の物語には、「主がヨセフと共におられた」という言葉が4回繰り返されている(39章2、3、21、23節)。それが語られるのは、神がまさにヨセフの行く手をさえぎり、理不尽な状況のただ中においてである。失望のどん底に置かれ、主に見放されたとしか思えぬ状況のただ中で語られている。ヨセフは、監獄で監守長の信頼を受けていても、彼の置かれた状況は、先の見えない不安や失望の続く日々なのではないだろうか。しかし、神が共にいないとしか思えないところこそ、「神が共におられる」その場所であることをこの物語は示している。
●7月21日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ たとえひとりであっても ✣
ヨセフ物語(37〜50章)の主人公ヨセフは、ヤコブの12人の息子の一人で、父のお気に入りの息子でした。彼は、兄たちから、「夢見るお方」と呼ばれているように、夢を見、判断することのできる能力がありました。ヨセフは少し生意気なところもありましたが、それ以上に、父の偏愛のゆえに兄たちから妬まれていました。やがて兄たちの妬みは高じて強い憎しみとなり、ついにヨセフを殺そうとたくらみます。
ところが、これを聞いた最年長の兄ルベンが、待ったをかけました。長兄としての責任感なのか、年下の者に対する優しさ、思いやりなのか。長兄であっても、敵意で一致している兄弟たちに、「殺すのは止めよう」と言うのは危険なことです。たとえ理にかなったことでも、集団の利益に反することを主張すれば、その矛先が一転して自分に向けられる恐れがあるからです。それにもかかわらず、ルベンは、ヨセフの命を取ることに「否」を主張しました。その勇気が、ヨセフの命を助けることになったのです。
集団の中で、多数派の意見と違う意見を言うのは本当に難しいことです。しかし、たとえひとりだけであったとしても、神のみ旨にそって自分の意見を言う勇気がもてるようにとルベンから教えられます。主よ、私たちにその勇気を与えてください。
●7月14日 週報巻頭言 牧師 村上 千代