✣ 神の助けを求めて祈る ✣
教会暦で言えば、今は受難節(レント)の中にあります。十字架へと向かうイエスの苦難をおぼえて、祈りつつ過ごします。
イエスは、これから自分の身に起ころうとする事がいよいよ迫ってきたことを知り、祈るために弟子たちを連れて山に登ります。そして、ゲッセマネというところで、三人の弟子たちを伴い、他の弟子たちと離れた場所で祈られました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。そう言って、十字架を前に、苦しみもだえながら祈るイエス。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。十字架刑は最も残酷で苦痛を伴う刑です。不安や恐怖、苦悶しながら祈るイエスですが、当の弟子たちは共に目を覚ましていることができずに、とうとう眠ってしまいました。イエスは、孤独と絶望の中で祈り続けた末に、十字架から逃れさせてほしいという祈りから「あなたの御心が行われますように」と祈りが変えられていきました。ここに至るまでにイエスの悲しみや苦しみがどれほどのものだったか。
わたしたちは、悲しみ苦悶するイエスと共に目を覚ましていることのできなかった弟子たちと同じ弱さを抱えており、他者の痛みや苦しみ悲しみに、真に寄り添うことのできない者です。イエスは、わたしたちのその弱さをご存じで、なお、わたしたちに「共に」と語りかけてくださるのです。
●3月21日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ わたしにつながっていなさい ✣
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネ福音書15:5)
ぶどうの木は見た目には大地に踏ん張り、堂々と枝を伸ばす大木ではありません。幹は曲がり、ぶどう棚や支えが無ければ立っていることもできず、木としての材は柱や板にもならず、薪にしかならないような存在です。でも、木としての存在を誇る代わりに、厳しい環境の中でもひたすらつながっている枝に養分を送り、良い実を結ぶことに全てを注ぎます。その生き方はただひたすらにつながっているわたしたちのために、貧しく弱く、罪人とさげすまされながら十字架で死なれたイエスの姿と重なります。
主は枝であるわたしたちに、枝の先に実を結ぶことを期待されているようです。また、せっかくつながっている恵みを失うことがないようにとも言われます。誰かと、何かと、つながって生きることが赦されるわたしたち。この大切なつながりの中心に、イエスさまご自身を示して「わたしにつながっていなさい」と言われます。互いにつながりにくいコロナの状況に加え、牧師が不在となる試練の時もなおこの呼びかけを受け止めたいと願います。
●3月14日 週報巻頭言 教会員 W.M.
✣ 3・11をおぼえて ✣
3月11日、東日本大震災発生から10年を迎えます。今年も、東日本大震災現地支援委員会から祈りの言葉が届きました。ともすれば、「被災地」のことが遠くなってしまう私たちですが、現地から発信される祈りによって、鈍くなった心が目覚めさせられます。
「…コロナウイルス感染症の影響の中、緊張した一年を歩んできましたが、2011年3月に発令された原子力緊急事態宣言は未だ解除されていないことも忘れてはいけません。これからも放射性物質による汚染と健康被害の恐れは続きます。私たちは引き続き目を覚ましつつ、祈りを合わせていきたいと思います。また、2021年2月13日には、震度6強の福島沖地震が発生しました。この地震は、東日本大震災の余震であると言われており、震災が今も続いていることにショックを受けました。東日本大震災からの10年を思い巡らしている時期の大地震だっただけに、精神的なダメージは計り知れません。…また近いうちに東日本大震災レベルの地震が発生するのではないかと不安な毎日を過ごしています。ぜひ、主の守りがありますようにお祈りください。」(現地支援委員会委員長 金丸真)
本日、お手元に「東日本大震災から10年を数えての祈り」を配布しています。苦難の中で悲しみ、痛んでいる人たちをおぼえ、共に祈りを合わせたいと思います。
●3月7日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 十字架の建つ幕屋的つながり ✣
自分は、学生時代、小池辰雄先生主宰の「武蔵野幕屋」から教会通いを開始しました。
ある日、小池先生に、教会と同じ礼拝をお捧げしているのに「幕屋」と命名されたのはどうしてですかとお尋ねしました所、先生はお手元から、十字架を組み入れた手作りの幕屋の模型を出され、次のように説明して下さいました。普通の幕屋(テント)は、地上に支柱を立て、その頂点が地上の複数の支点と結ばれ、テントが構成されているが、ここの幕屋は地上の中心に十字架(主イエスの象徴)が立ち、その頂点が多数の信徒と結ばれ幕屋が形成されている。そして地上の各信徒は、夫々十字架を見上げ、更にその先の天を仰ぎ、天からのお導きを、十字架を通して頂いている。また地上の信徒間は、勿論、直接自由に関わりを持つことが出来るが、出来れば十字架を通しての交わりが叶えばそれが望ましいと言うご説明を先生から頂きました。私達の栗ヶ沢教会もこの4月からいよいよ無牧師となります。しかしその無牧師の期間がどの位続くかわかりませんので、それを克服する工夫が必要となりましょう。その一つの工夫として、出来れば精神的には十字架の支柱を持つ幕屋的な、教会員のつながりをしっかり持って無牧の試練を乗り切って行くことも考えられるのではないでしょうか。
●2月28日 週報巻頭言 教会員 S.S.
✣ イエスについていく ✣
今日は、嬉しいことが二つあります。一つは、かねてから教会に来られていた方の信仰告白とバプテスマ式、もう一つは、栗ヶ沢教会に連なるご家庭に与えられた幼な子の祝福式です。二つの新しい命を喜んでいます。
礼拝において、イエスを自らの救い主と告白し、バプテスマを受ける方は、神によって新しく創造された者として、これからの人生を歩み出します。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント 二 5:17、新共同訳)。そして、これらはすべて神から出ることであると続けて語られています。一人の人が、教会と出会い、聖書に証しされたイエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して神の愛にふれ、キリストの恵みによって生きる人生の決断に至ったのは、聖霊として働かれる神の導きに他なりません。これからも、聖霊なる神が、信仰の歩みを導いてくださるようにと祈ります。そして、新しい方を群れに加えてくださる主に感謝し、迎える私たちも自らの信仰を省み、主によって新しくされて共に教会をつくっていきたいと思います。
また、教会に連なるご家庭に与えられた新しい命が、神のかけがえのない一人の人間として育まれていくことを教会は願い、幼な子と共に歩んでいきたいと思います。
●2月21日 週報巻頭言 牧師 村上 千代


