✣ 神を畏れ敬えば ✣
「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざがあります。二つの物事を欲ばって同時に得ようとして、結局どちらも得ることができず失敗したり、中途半端に終わることを意味しています。一つに集中することです。
コヘレトは、それとは逆のことを言います。「一つのことをつかむのはよいが、ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば、どちらをも成し遂げることができる」(7:18)。コヘレトは、ここで、あれもこれも何でも適当にという、事なかれ主義を勧めているのではありません。「善のみ行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない」(7:20)と言うように、人間は、善と悪が百ゼロではなく、両義性をもっています。それゆえ、「神を畏れ敬えば」、両極端に走ることなく、どちらをも成し遂げることができる」と言うのです。
もう一方で、新約聖書の黙示録には、「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」という言葉があります。コヘレトと黙示録の言葉、矛盾しているようですが、どちらも真理であり、今、聴くべき言葉だと思います。
今日、格差や差別など多くの問題を抱え、自由や平和憲法が危うい状況の日本において、私たちは、キリスト者として、どこに立ち、どう生きるのかを、コヘレトや黙示録の言葉を通して考えさせられます。
●10月25日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 三つよりの糸は切れにくい ✣
「見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない」(コヘレトの言葉 4:1より)。強い者が弱い者を虐げる現実は、聖書の時代から数千年間変わらず世界を覆っています。
2018年度、在外研究でイスラエルとパレスチナに滞在しておられた濱野道雄先生(西南学院大学神学部教授)の現地からの発信に、こう書かれていました。「パレスチナの失業率は26パーセント(2016)ですが、家父長制の伝統の中、女性たち自身が収入を得ることは容易ではありません。パレスチナ経済悪化の理由は、占領下でイスラエルへの経済依存を余儀なくされていたところ、2000年頃からの自治区封鎖により経済も封鎖されたためです。さらに今年、アメリカが国連を通してのパレスチナ支援金を停止したため、その資金で運営されていた食料施設や学校などが運営できなくなり、新たな失業者を生み出しています」(女性連合『世の光』2018年10月号)。
抑圧され自由を奪われたパレスチナの厳しい現実の中で、女性自立支援のために23年もの間、イドナ村で働いている水本敏子さんと、日本でその働きを共に担っている「サラーム(平和)」というグループの人たちがいます。厳しい現実を抱えるイドナ村の女性たちですが、共に働くことで彼女たちに自信がわき、雰囲気は明るいといいます。両者を結ぶのは愛や友情。そこに神の働きがあり、互いが強められているのです。
●10月18日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 神の時を生きる ✣
旧約聖書コヘレトの言葉は、「空しい」から始まります。この「空しい」は、私たちの人生が無駄だとか、意味がないということではありません。「空しい」の元々の意味は「はかない」や「一時的」などです。ですから、私たちが普通に用いる空しさとは違います。「空」で始まり「空」で終わる言葉の中で、著者は「何事にも時がある」と、人生の中で起こる様々な出来事を両極で記しています。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
戦いの時、平和の時
これらの行為の主語は、人間ではなく神ご自身です。私たち人間には神のなさる業を見極めることはできませんが、良い時も、悪い時も、時と共に働かれる神がおられる、と聖書は希望を示します。私たちは神の時を受け、神の時を生きていくのです。
●10月11日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 空しいことは恵み ✣
新聞を読みながら、暗いニュースの何と多いことかと、暗澹たる気持ちになることがある。民主主義の危機、命の軽視、不正、不公平、など、今日の社会は、闇の現実が益々深まっていると言っても過言ではないと思う。
希望を見失いそうな中で、10月2日の東京新聞「発言」(若者の声)欄に掲載されていた、上川路ひなたさん(13歳、中学生)の「希望を捨てぬ人に心打たれ」にハッとさせられた。「この世界は不公平であふれている。私は学校に通え、温かいご飯を食べ、気持ち良いベッドで寝られる。でも、朝から夜まで働かされ、ご飯も少ししか与えられず、床で寝なければならない子どももいる。/私は前までそんな人たちを『かわいそう』としか思っていなかった。でも、父が、戦争などの多いガザという地区から一人の女性を日本に招いたことをきっかけに、考えが変わった。彼女は戦争中でも希望を捨てなかった。がれきでブロックを作り、壊れた建物を直した。現在はソーラーパネルで電気をつくっている。/不公平に立ち向かう人がいると知り、私の心は動いた。厳しい環境の中でも希望を持ち続けている人がいる。私はその人たちの何倍も希望を持ち、皆に配ってあげられる人になりたい」。出会いによって心が動かされ、人間を見る目や考えが変えられたという言葉に、希望とは何かをおしえられる。
今日、主の晩餐式が行われる。イエス・キリストの希望を心に刻みたい。
●10月4日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ コロナ危機の中で共に生きる ✣
今年は、年明けからCOVID-19新型コロナウイルス(以下、コロナ)によって全世界が混乱し、いまだ終息の見通しが立たず、今日に至っています。それでも、多くの研究者の努力によってコロナ感染を防ぐための対処の仕方が見えてきて、少しずつ社会活動が進められてきました。まだまだコロナ前のようにはいきませんが、私たちは、三密を避け、マスク着用、アルコール消毒、手洗いなどを心がけて日々の生活を営んでいます。
教会も、突然ふりかかってきたコロナの影響によって、これまで当たり前にできていたことができなくなりました。人が集まる場所ですから、苦悩しながら、緊張しながら、キリストにある希望と、神が共にいてくださるという約束にしがみついて、教会を閉じることなく歩んできました。これから寒い季節を迎えますので心配はありますが、揺らぐことのない主の支えを祈りつつ、感染防止対策を徹底して、年度後半の歩みを進めていきたいと思っています(徹底管理するという、福音とは逆行することにも悩みながらですが)。
コロナに限らず、受け入れ難い苦難の中で、私たちは「神さま、なぜ」と問います。「なぜ」への答えは分かりません。ただ、教会として言えることは、互いの悩み苦しみ痛みを分かち合い、教会の内外という壁を超えて「一緒に生きていこう」と励まし合うことではないかと思っています。
●9月27日 週報巻頭言 牧師 村上 千代