✣ 良い羊飼いに導かれる群れ ✣
今日の礼拝後、栗ヶ沢教会が長年だいじにし、祈りをもって取り組んできたバザーを行います。そして、収益は、4ヵ所の障がい者福祉施設(いぶきの広場、ザザビー、止揚学園、久山療育園)に献金します。
バザーの意味は、辞典によれば「慈善事業・社会事業などの資金を得るために、品物を持ち寄って売る催し。慈善市。」となっています。しかし、わたしたち教会が行うバザーは、他人に対して情けや哀れみをかけることでも、恵まれない人々への経済的な援助でもありません。自らのいのちが、神から与えられたものであることをおぼえ、他者のいのちに思いを馳せ、人々と共に生きるわたし(たち)として、他者との関係につなげられていくことです。ですから、献金をお届けして終わりではなく、各施設のことや、そこで生きている人たちのこと、また、人のいのちに優劣がつけられるような現代社会の中で「障がい者」のおかれている状況などを、知り、理解を深めることがだいじです。そして、祈ることを通して、自分たちにできる具体的な行動へと向かうのです。
今日は、そのようなことを考えながら、バザーで共に労する喜びと、近隣の方々をお迎えして交流する喜びを味わいながら、たのしく過ごしてまいりましょう。
●2月16日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ わたしは「世の光」 ✣
先週、連盟理事会に出席しました。会議では話し合うべきことが多く、時には課題の重さにしんどさをおぼえることもあります。しかし、語られるみ言葉や、会議で交わされる言葉の中に、キリストの福音を知らされ励まされています。今日は、開会礼拝(ヨハネ16:33)の恵みを分かち合いたいと思います。
メッセージ担当の牧師が、昨年、会議のために沖縄へ行き、普天間基地ゲート前の「ゴスペルを歌う会」に参加した時のこと。そこに、クリスマスにバプテスマ(洗礼)を受ける予定の小学生の兄弟二人がいたそうです。バプテスマ準備の中での牧師との会話。「イエスさまってどんな方?」「すでに世に勝っておられる方」「それはどこで誰から習ったの?」「ゲート前ゴスペルの賛美歌で知ったよ」。毎週月曜日、賛美歌を歌う集会で、賛美歌の詞を通して兄弟たちに福音が届いていたのです。沖縄の厳しい状況の中、イエスの勝利を信じ、キリストの光をまっすぐに見ている兄弟たち。隣りで「ミルクユ チュクルナ ウチスリティ(神の国をいっしょにつくろう)」(平良愛香作)を、大きな声で賛美する兄弟の歌声に、少し気落ちしていた自分がとても励まされたとのことでした。
わたしたちも、主の十字架の勝利を信じ、世の光である主をまっすぐに見て、この時代を生きていきたいと思うのです。
●2月9日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ すべての人の渇きを潤す水 ✣
先週金曜日(1/31)、福岡市にある西南学院の理事会に出席しました。西南学院は、キリスト教主義にたつ教育機関であり、そのルーツは、1889年に遡ります。1889年、アメリカ南部バプテスト連盟(SBC)による日本への伝道が始まり、1907年西南学院の前身である福岡神学校が開設され、1916年にSBC宣教師C.K.ドージャーによって西南学院が創立されました。「Seinan, Be True To Christ(西南よ、キリストに忠実なれ)」。ドージャー先生の言葉を建学の精神とし、現在、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学があります。大学には神学部が置かれ、アカデミックな一学部としての性格だけでなく、日本バプテスト連盟(以下、連盟)の教派神学校としての使命も負っています。
近年、献身者がなかなか起こされず、神学部で学ぶ学生が少なくなっています。社会や教会の状況変化など、その理由は単純ではないでしょう。しかし今日のように、命の軽視、平和の危機、人間をはじめ、すべての被造物が呻いている時だからこそ、イエス・キリストの救いを宣べ伝える教会の働きは、益々求められるのです。これからも、献身者が起こされるよう収穫の主に願い祈りつつ、すべての人の渇きを潤す水を分かち合う教会の働きに仕えてまいりましょう。
●2月2日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ いのちのパン ✣
ヨハネによる福音書(以下、ヨハネ福音書)が書かれた目的は、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:31)と言われています。
3章から17章にわたって、「永遠の命」という言葉が続きます。ヨハネ福音書は、人々が「永遠の命を得る」ことが神のみ心であり、そのためにイエスが世に遣わされたことを繰り返し語ります。「永遠の命」とは何でしょうか。それは、神を知ること、イエス・キリストを知ることそのものです。そして、イエスを信じること、それが神の業であると福音書記者は語ります。「永遠の命を得る」というのは、自分で徳を積んで将来獲得するようなことではなく、今を、イエスのように生きることだということができます。イエスは、その生涯を徹底して他者のために生きられました。イエスの生き方を自分の生き方とするとき、そこに命の輝きがあります。その命が永遠の命なのです。
イエスの生き方を自分の生き方とすること、その難しさをいつも知らされる私たちです。そのような私たちだから、主は自らを十字架に差し出してくださったのです。そして「わたしが命のパンである」と言われ、そのパンを信じ、そのパンを食べて生きよ、と私たちを招いてくださるのです。
●1月26日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ イエスの声を聴く ✣
先週の1月17日は、阪神淡路大震災が起こってから25年の記念の日でした。
神戸で被災した友人は、寒い冬が来ると、あの日のことがありありとよみがえってきて苦しくなると言います。どんなに時が経っても、家族や友人を失った悲しみや、生き残った者の苦しみ、傷みは、消えるものではありません。しかし、それでも、人と出会い、人とつながって、互いに励まし合い、少しずつ前に進んでここまで生きてこられたのではないかと思います。そして、被災地に建てられた教会もまたそうです。自らが被災し、さまざまな困難の中にあって、でも、人との出会いや、出来事を通して、暗い中にキリストの希望を見出し、互いに励まし合ってこんにちに至っているのです。「震災が奪ったもの 命 仕事 団欒 街並み 思い出…たった1秒先が予見できない人間の限界…震災が残してくれたもの やさしさ 思いやり 絆 仲間」(東遊園地のモニュメント「1.17希望の灯り」より)。神が震災を通して新しい創造を起こしてくださったことをおぼえ、悲しみ、傷みのある所に深い慰めを祈ります。
わたしたちは、暗い中で困難に直面した時、恐れます。「恐れることはない」というイエスの声を聴き、その声に導かれていくときに、いつか向こう岸に着いていたということを信じて歩みたいと思います。
●1月19日 週報巻頭言 牧師 村上 千代