✣ 平和への祈りをつなぐ ✣
女性連合は、6月23日を「6・23沖縄(命[ぬち]どぅ宝)の日」と定め、平和を祈る時としています。毎年、沖縄での学習ツアーも実施していますが、今年は、新型コロナウイルス感染防止のために中止になりました。「沖縄は学習に来るところではない。連帯するために来るところ」、沖縄のT牧師の言葉がズシンと重く心に残っています。その場限りの学習ではなく、自分の足元で平和のための働きをせよ、ということなのでしょう。沖縄の痛みを私たちの痛みとし、平和を希求する祈りの輪に、私たちも連なりたいと願います。
女性連合『世の光』6月号の巻頭言(岡田富美子、那覇新都心教会)の一部を紹介します。・・・・・・ 世界が同じ一つのこと(コロナ)で悩む時、沖縄ではさらに4月10日、普天間基地から外に22万リットルの泡消火剤が流れ出しました。発がん性物資の有機フッ素化合物が含まれ、有毒で米軍も処理に困っていたものです。米軍司令官の言葉、「雨が降れば収まる」。在日米軍基地の70パーセント以上が沖縄に置かれ、悔しいことが起こる日常です。「そのことを知ってほしい。皆の問題」と2006年、第34回女性連合総会で那覇新都心教会女性会の提案「6月23日を『沖縄(命どぅ宝)の日』として覚え平和を祈る時として守る」が満場一致で決まりました。議場の感動が今もわたしの中を巡ります。・・・・・・
We Shall Overcome(勝利を我らに)
●6月21日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ コロナは、わざわい? ✣
先日の会議で、ある先生から、「コロナ禍」という表現について指摘がありました。それは、コロナ自身は「わざわい」なのか、という問いでした。コロナはふりかかってきたもの。人間による環境破壊や、地球温暖化の影響によって現れたであろうものを、単に「わざわい」としてよいのか、「わざわい」とマイナスイメージだけで捉えてよいのかということでした。この未曽有の出来事を、わたしたち人間の新しい生き方へのチャンスにもなりうる出来事として捉え、わたしたちは、「コロナ禍」ではなく「コロナ危機」と言い表した方がよいというのがその先生のご意見でした。なるほど、、、わたしたちは、というか、わたしは、それまで「コロナ禍」という表現に何の違和感ももたずに使っていましたので、とても考えさせられました。
また、「わざわい」は「さばき」と結びつく言葉であり、一部の教会で、コロナ感染が「神の罰」として語られ、それが感染した人への差別につながっているということも聞いています。コロナは、決して「神の罰」ではないのです。そのようなことからも、「コロナ禍」という言葉を教会が用いるのは相応しくないと気づかされました。神は、この危機の中で苦悩するわたしたちに寄り添っておられ、どのような苦しみの中にあっても支えてくださる方なのであります。
●6月14日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 互いに励まし合う ✣
先週、福井教会を訪問しました。この度、教会復興を目指す教会のために祈り応援しようと、福井伝道祷援会が立ち上げられ、その呼びかけ人の一人に加えていただいたので行ってまいりました。道中、車窓から見る緑の美しい景色に心がいやされ、コロナ禍の中で外出を控えることが、いかに人間の心を窮屈にしているのかに気づかされました。到着すると、平良憲誠牧師とお連れ合いの民枝さんが、初の来訪者によって心がパッと明るく開かれた感じがすると喜んでくださり、その喜びに私自身が元気にされました。今、人と接することが制限されてWEBでのつながりが盛んになっています。どんなに遠くの人ともつながることのできる利点があります。でもそこには両者間に漂う空気や「におい」がない。これがWEBの限界であり、つながるということについても考えさせられました。
「福井は、私の全く知らない土地です。東尋坊、永平寺、九頭竜川、鯖江のめがね、越前ガ二、若狭湾に面する原発などと、いくつかのことは覚えました。あとは、この土地を愛することと、何よりも福井教会をたったお一人で支えて来られた兄弟と、そして、私たちがこちらに来たときには、福井教会で礼拝を守ると言ってくださった姉妹との4人での礼拝を楽しむことが、当面の希望に溢れる夢です」と、平良牧師。福井教会をおぼえて祈り、いつか訪ねたいですね。
●6月7日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 病者の祈り ✣
〜ニューヨークリハビリテーション研究所の壁に書かれた 患者の詩〜
大事を成そうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった
より偉大なことができるように 健康を求めたのに
よりよきことができるようにと 病弱を与えられた
幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の称賛を得ようとして 権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった
人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと 生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表わせない祈りは すべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で 最も豊かに祝福されたのだ
●5月31日 週報巻頭言 教会員 M.H.
✣ 新たな出会いを起こす神 ✣
約二千年前に教会が誕生して以来、教会は、社会の人々から、あるいは国家権力によって抑圧や迫害を受けてきた歴史があります。教会は、困難な状況の中で、内部的な危機に襲われ、分裂し、それによって散らされていった人々がいました。しかし、主は、その人たちを放ってはおかず、たどり着いた先で新たな出会いを起こし、散らされた人々の中から「新しい宣教」が起こされていったことを聖書は語っています。
日高嘉彦・龍子元宣教師が遣わされたタイバプテスト神学校のルーツは、1949年から1950年の間に、国内の政情不安のために中国を離れるよう要求された米国南部バプテスト宣教師たちの一部がタイに入国したことに遡ります。宣教師たちは、タイの中国人クリスチャンと共に礼拝し、新しい教会を建て、牧師やリーダー養成のために中国語で教える聖書学校を設立しました。後にタイ語でも教えるようになり、1964年に文部省認可の神学校となりました。日本の私たちが羨むほどの多くの若い神学生が活き活きと学んでおり、全国の教会へと遣わされています。
神は、様々な出来事を通して私たちに希望を示されます。苦しい現実の中で、新しい出会い、新しい創造を起こし、私たちの思いを遥かに超えて働いてくださる神が、私たちと共に歩んでくださるのです。
●5月24日 週報巻頭言 牧師 村上 千代