✣ 空しいことは恵み ✣
新聞を読みながら、暗いニュースの何と多いことかと、暗澹たる気持ちになることがある。民主主義の危機、命の軽視、不正、不公平、など、今日の社会は、闇の現実が益々深まっていると言っても過言ではないと思う。
希望を見失いそうな中で、10月2日の東京新聞「発言」(若者の声)欄に掲載されていた、上川路ひなたさん(13歳、中学生)の「希望を捨てぬ人に心打たれ」にハッとさせられた。「この世界は不公平であふれている。私は学校に通え、温かいご飯を食べ、気持ち良いベッドで寝られる。でも、朝から夜まで働かされ、ご飯も少ししか与えられず、床で寝なければならない子どももいる。/私は前までそんな人たちを『かわいそう』としか思っていなかった。でも、父が、戦争などの多いガザという地区から一人の女性を日本に招いたことをきっかけに、考えが変わった。彼女は戦争中でも希望を捨てなかった。がれきでブロックを作り、壊れた建物を直した。現在はソーラーパネルで電気をつくっている。/不公平に立ち向かう人がいると知り、私の心は動いた。厳しい環境の中でも希望を持ち続けている人がいる。私はその人たちの何倍も希望を持ち、皆に配ってあげられる人になりたい」。出会いによって心が動かされ、人間を見る目や考えが変えられたという言葉に、希望とは何かをおしえられる。
今日、主の晩餐式が行われる。イエス・キリストの希望を心に刻みたい。
●10月4日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ コロナ危機の中で共に生きる ✣
今年は、年明けからCOVID-19新型コロナウイルス(以下、コロナ)によって全世界が混乱し、いまだ終息の見通しが立たず、今日に至っています。それでも、多くの研究者の努力によってコロナ感染を防ぐための対処の仕方が見えてきて、少しずつ社会活動が進められてきました。まだまだコロナ前のようにはいきませんが、私たちは、三密を避け、マスク着用、アルコール消毒、手洗いなどを心がけて日々の生活を営んでいます。
教会も、突然ふりかかってきたコロナの影響によって、これまで当たり前にできていたことができなくなりました。人が集まる場所ですから、苦悩しながら、緊張しながら、キリストにある希望と、神が共にいてくださるという約束にしがみついて、教会を閉じることなく歩んできました。これから寒い季節を迎えますので心配はありますが、揺らぐことのない主の支えを祈りつつ、感染防止対策を徹底して、年度後半の歩みを進めていきたいと思っています(徹底管理するという、福音とは逆行することにも悩みながらですが)。
コロナに限らず、受け入れ難い苦難の中で、私たちは「神さま、なぜ」と問います。「なぜ」への答えは分かりません。ただ、教会として言えることは、互いの悩み苦しみ痛みを分かち合い、教会の内外という壁を超えて「一緒に生きていこう」と励まし合うことではないかと思っています。
●9月27日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ あなたの父母を敬え ✣
明日、21日(月)は「敬老の日」です。この祝日は、1966年、「国民の祝日に関する法律」が改正された時に制定されました。毎年9月15日がその日と定められていましたが、祝日法が改正され、ハッピーマンデー制度の実施によって、2003年からは、9月第3月曜日が「敬老の日」になっています。そのため、毎年、日にちが変わります。
旧約聖書に「あなたの父母を敬え」という言葉があります。これは、「敬わなければならない」という道徳的な言葉ではありません。神によって救い出され生かされたわたしたちは、年老いて弱さの中におかれた者たちを重んずるのです。それは、「今まで労苦を重ねて生きてきた人々が老後を安らかに過ごす」ためです。栗ヶ沢教会は「教会形成の指針」で次のように述べています。「私たちは、高齢社会を生きています。高齢者は、かけがえのない時を生きてきた証人、深い恵みを味わうことを許された者です。と同時に、病いや心身の衰え、それに孤独感や死への恐れを伴います。しかし私たちは、たとえどのような状況にあっても、生命(いのち)の源なるイエス・キリストが寄り添っていてくださることを確信します」。
高齢者が安心して生きられる社会は、誰にとっても安心な社会。そのような社会でありたいと思います。ご高齢の方々の上に、主の守りと祝福をお祈りいたします。
●9月20日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ あなたの負担を軽くし ✣
新型コロナにより、私たちは今年度の活動を中止や延期に、または、内容や実施方法を変えざるを得ない状況に置かれています。感染によって多くの人々が苦しみ、とくに弱い立場の人が命の危機に直面していることを思うと心が痛みますが、この間、日常が崩され、活動が一旦止まる中で、立ち止まって考え、新しいことにチャレンジする恵みも与えられています。私たちはポストコロナをどう生きるのか、地域の人々と共に生きる教会を目指す教会形成について考えさせられます。
連盟発行の『聖書教育』第24課に、次のように書かれています。「教会の組織図を思い描けるでしょうか。…執事/役員は何人いますか。委員会はいくつありますか。総会を頂点にして、どのような役割を分担しているでしょうか。どこで何が決まるのか、確認してみましょう。礼拝の奉仕役割分担についても考えてみましょう。最大の奉仕は礼拝出席そのものです。それが『神を畏れる』行為だからです。礼拝出席以外で教会の『大切な一部分』として、各人が担っている礼拝での役割を分かち合いましょう。教会学校はどうでしょうか。役割分担によってお互いの負担は軽くなっていますか。かえってくたびれているのなら、再考が必要かもしれません」。
私たちはどうでしょうか。教会は何を変え何を守っていくのでしょうか。
●9月13日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 神の導きと支え ✣
新生讃美歌570「たとえばわたしが」(詞・曲 野中宏樹)は、約30年前につくられた歌で、この間連盟諸教会で広く用いられ、親しまれてきました。しかし作者は、3番の詞を何とかしたいとずっと考えていたようで、この度のコロナ危機の中で、3番の詞を下記のように変え、2020年バージョンとして歌っています(変更は下線部)。
イェスさまと共に 歩き出すときに
あなたも気づくだろう 誰かのあしあと
砂の上につづく その足あとたちは
あなたとイェスさまと数えきれぬ人びと
共に生きるよろこび かみしめながら
歩いてゆく あなたのそばにはいつも
もうひとつの足あと
共に生きるよろこび かみしめながら
歩いてゆく あなたのそばにはいつも
数えきれぬ足あと
私たちは、困難な道を歩まなければならない時、「なぜ」と問いかけたくなるようなことがあります。また、その道をひとりで歩いているような孤独を味わうこともあります。しかし、私たちは本当にひとりぼっちなのでしょうか。旧約の時代から、「あなたはひとりではない、私が共にいて導き支える」と、神の約束が語られています。神のその約束と、困難な道を共に歩む多くの隣人の存在に気づいていきたいと思います。
●9月6日 週報巻頭言 牧師 村上 千代