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P.T.フォーサイスという英国の神学者が著した、「祈りの精神」という本があります。「最大の罪は祈らないことである」という冒頭の言葉で有名なこの本は、わたし自身が祈りについて思いめぐらすとき、必ず書架から取り出し、その言葉によって励まされ、力を受ける書物です。
フォーサイスは次のように言います。「この世に生活していくために、人は労働をしなければならない。同様に、魂を養うために人は祈りに労苦しなければならない。それは何と崇高な労働であろうか。『主イエス、悲しみ迫りて祈りたまえり。』必要であれば、血涙してでも祈らなければならない。神と力を合わせることは神を受け入れることである。その受け入れは、積極的、労働的である。・・・祈りは単なる願いではなく、意志を携えて神に求めることであり、意志がこもるのである。行動的に神を知り、出会うことなくして本当に祈ることはできない。」
神と出会うことなくして祈ることはできない、というフォーサイスの言葉は、まさにその通りです。その時の気分で、祈ったり祈らなかったりするのではありません。また、困ったときだけ祈るのでもありません。祈りを通して信仰を整え、それによって生活を整えるのです。祈りは神と出会う場であり、私たちの霊性を高めるための大切な奉仕です。祈りを生活の中に取り入れましょう。
●9月5日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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創世記の32章には、父イサクを欺き、兄エサウから祝福を奪い取ったヤコブが、母の里であるパダン・アラムに逃亡し、そこで叔父ラバンのもとで14年間働いた後に、家族と多くの家畜を得て、カナンの地に帰って来たときのことが描かれています。カナンの地に帰還するに当たり、ヤコブがどうしても果たさねばならなかったことは、兄エサウとの和解でした。
ヤコブは、この夜ヤボク川のたもとにたどり着きます。この川はヨルダン川の支流で、ヨルダン川を越えると、そこはカナンの地です。ヤコブは、家族と家畜をすべて向こう岸に渡らせたのちに、ただ一人後に残りました。兄と再会する前に、かつて自分が犯した罪(兄を欺き、祝福を奪い取ったこと)を主なる神の前で悔い改めるためであったと思われます。
しかし、このときヤコブが行ったことは「何者かと夜明けまで組み打ちする」ということでした。自分自身の罪深さは百も承知していながら、素直になれない。あの「祝福」を、天使と格闘するようなしかたで、再び神から求めずにはいられない。それが、ヤコブの正直な姿でした。このヤコブの姿は、イスラエル民族の歴史をそのまま物語っています。この格闘でヤコブは神に勝ち切ることができず、神に股関節を外され、足を引きずりながら兄と再会します。兄エサウとの和解は、その「痛み」のなかで実現するのです。
●8月29日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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旧約聖書の詩編119篇71節に、心に刻むべき次のようなみ言葉があります。
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによって、わたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(口語訳聖書)
私たちの人生には、時として、思いがけない試練や困難が襲いかかって来るものです。病気や事故、仕事や人生計画の挫折、大切な人との別れなど、極端に申せば、私たちの人生は試練の連続ではないでしょうか。
しかし、詩編の作者は、そのような苦しみにあったときそれを「良いことです」と言い切ります。なぜそう言えるのでしょうか。それは、私たちが苦しみを経験することで、自らの力に限界があることを悟り、自らの弱さを通して働かれる神の恵みを知るためです。さらに、信仰によって、人は試練を通して自らが謙虚になることを学び、その中で試練を乗り越える知恵や勇気を与えられます。そうして、その試練がその人の成長のための「肥やし」になるのです。
いま、新型コロナウイルス感染症の拡大によって、世界中のひとびとが苦難と動揺の中にあります。しかし、このことを通して神さまは私たちに何かを伝えようとされているのではないでしょうか。混乱のなかにあって、神が示される御心を謙虚に学ぶ強(したた)かな信仰を養いたいと思います。
●8月22日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
✣ 平和―神の義の実現 ✣
本日は8・15、終戦記念日です。76年前のこの日、わが国はポツダム宣言を受け入れて無条件降伏し、玉音放送によって太平洋戦争は終わり、占領軍の統治下におかれました。GHQ(General Headquarters=「連合国軍最高司令官総司令部」)は、わが国の民主化を実現するために、平和憲法の制定、極東軍事裁判の実施、普通選挙制度の導入、財閥の解体、農地解放、公職追放、教育制度の改革など、多方面にわたる改革を進めました。
あの日から76年たった今も、先の大戦の傷跡は深く残っています。つい先日も、広島高裁で争われた「黒い雨訴訟」の判決を受けて、政府は上告しないという判断を下しました。8月を迎えるたび、年配の方は戦後の混乱期を必死の思いで生きたあの頃を思い起こすことでしょう。
現在のわが国の平和は、先の大戦に対する深い反省に依拠しています。「二度と同じ過ちは繰り返さない!」という強い決意が、今の平和憲法の根底にあるのです。
ひとつの国が戦争を決断するには大きなエネルギーが必要ですが、それと同じくらいのエネルギーが「二度と戦争をしない」という決断をするために必要です。そのためには「信仰」=「神の義の実現への意志」が必要なのではないでしょうか。ゆえに、8・15は自らの信仰を顧みる日でもあります。
●8月15日 平和祈念礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
✣ 大切にしたい教会の「交わり」✣
教会のなすべき務め(mission)のなかで、とくに大切な働きの一つであると思われるものに「交わり」があります。キリスト者の交わりとは、「イエス・キリストを通して」の、また「イエス・キリストにあって」の交わりのことです。私たちはイエス・キリストによって、互いに結ばれているのです。
しかし、このことは同時に次の二つのことを意味しています。第一に、ひとりのキリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰を分かち合うために、ほかのキリスト者を必要とするということ。第二に、ひとりのキリスト者は、ただイエス・キリストを通してのみ、ほかのキリスト者の人格に関わるということです。イエス・キリストは、私たち信徒がお互いを深く理解しあうための仲立ち(仲保者)となってくださるのです。
フィリピの信徒への手紙2章で、パウロは「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え(なさい)」と勧告しています。教会の交わりを深めるために大事なことは、何といっても、お互いを尊重し合うことです。相手の欠点を非難したり、責めたりするのではありません。そうではなく、そのような弱さを抱えている人間としてお互いを受け入れるのです。教会の交わりには、寛容と忍耐が必要です。それが、神の家族となるためのスタートラインなのです。
●8月8日 週報巻頭言 牧師 木村 一充