✣ 今日の祈り ✣
『バプテスト』誌8月号の協力伝道カレンダーのページに、8月6日は「栗ヶ沢バプテスト教会の今日の祈り」として、次の3つの祈りの課題が掲載される予定になっています。
①コロナ下牧師不在期間の礼拝継続
②次期牧師招聘決議感謝と教会形成
③幼子の成長と青少年の仲間づくり
私たちバプテストは、それぞれの教会の自主性を重んじ、同時に教会相互の協力を大切にします。現在示される栗ヶ沢教会の祈りの課題を公にして、連盟に連なる教会や同信の人々と祈りを共にすることを願って、この課題を編集室に伝えました。自分のこと、家族のこと、自分の教会のこと、繋がる友のことに日々の祈りを注ぐ私たちですが、広島原爆の日と重なるこの日に栗ヶ沢教会が祈られるように、私たちも全国の教会の働きや課題を覚えたいと願います。
5月総会で次期牧師木村一充先生の招聘を決議し、8月1日就任が決まりました。中心核となる新しい牧師を迎えて、私たちは牧師と共にどのように生きた教会を形成するか問われます。人が集められた教会は、世の何物にも代えがたい豊かさと、個人の自由意思で支えられる弱さや問題も抱えます。「恵みに応答し、証する」ことを目指すとき、「祈りの共有」が道筋を整えるカギのように思います。
●7月11日 週報巻頭言 教会員 W.M.
✣ 霊的渇望 ✣
2月24日の朝日新聞朝刊に、宗教学者 碧海寿広(おおみ・としひろ)氏が“にじいろの議”欄で、若者の宗教観「進む個人化・内面化」について述べています。氏は、「現代の少なからぬ学生が『自分とは何か』という問いを発しながら生きている」と。また、「仏教を中心に宗教の近代化について研究しているが、その研究の要点の一つは、宗教の『内面化』だ。宗教が、公の場所から見えにくくなり個人の内面の問題と化すとともに、その内面的な場所で、自己を問うための媒体の一つになる、といった現象である」と述べています。
氏は、このような状況の中、世間では占いやセラピー、ヨガや瞑想、パワースポット巡りなどがはやっているが、これらスピリチュアル的なものが、宗教の代替えになっていると指摘されています。確かにそうだと思います。そしてもう一つ気になっていることは、ゲーム熱です。電車で、真剣にスマホに向かっている人をよく見ます。故意にではなく何となく目に入るその画面は、ゲームです。ゲームを楽しんでいるとは言えない、真剣そのものです。私はこれを、虚無、そして霊的渇望をうめることの出来ないでいる人間の姿ではないかと思っています。宗教離れした現代人は、霊的に渇望を覚えているのでしょう。その霊的渇望は、霊なるイエス・キリストの神との交わりにおいてのみ満たされるのです。聖書を通して、イエス様との交わりを深めてまいりましょう。
●7月4日 週報巻頭言 松村 誠一(大泉バプテスト教会 代務牧師)
✣ 光の中を歩む ✣
毎日の日課として聖書を読み続けている方は、クリスチャンの中にどのくらいいらっしゃるのでしょう。私は残念ながら、読めていないグループの一人に含まれます。でも、かつて自分が教会の幼稚園に勤めていた時、毎朝の朝礼で聖書を1章ずつ、職員全員で輪読しながら読んでいました。12年半の在勤期間中に、3回は聖書通読をしていたことになります。今振り返ってみて、なんと恵まれた日々を過ごしていたことかと思います。
「ヨハネの手紙」(一~三)は、創世記から黙示録まで66巻ある長い聖書の中の62~64巻目という、最も後ろの方に置かれている書です(新共同訳聖書、旧約の続編は含まない場合)。その御言葉から、この書に至るまで聖書を読み進めてきた者たちに対して、自分勝手な解釈をして誤った信仰の道に進んで行かないように…と、最後の道しるべとして置かれているようにも感じられます。
私たち人間は皆弱く、罪を負っている者です。本来は闇の中を歩んでいました。しかし、神が私たちへの愛をイエス・キリストによって示してくださり、私たちに光を照らしてくださいました。それでも、その光の方に向き直らなければ、私たちは闇に向かって歩き続けることになります。教会は、週の初めに私たちを光の方へと向き直らせてくれます。教会と共に、キリストの光の中を歩んで行く者となれますように祈ります。
●6月27日 週報巻頭言 教会員 K.T.
✣ 互いに愛し合う ✣
ギリシャ語には、「愛」を表す語が4種類もあるそうです。そのうち新約聖書で使われているのは、「アガペー」と「フィリア」の二つです。「アガペー」は神の愛を意味し、無償の愛です。「フィリア」は友情や恋愛、あるいは美しいものを求める心など、人間相互の愛の関係や愛しいと思うものへの愛情を意味しています。ヨハネの手紙の著者は、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と繰り返し述べています。そして彼は「互いに愛し合う」根拠を、「神は愛だからです」という言葉に置いています。また3章では、キリストを示されたから人は愛を知った、言い換えれば、キリストに出会う前は人は愛を知らなかった、と言っています。つまりこの手紙の著者は、「アガペー」の愛でお互いを愛し合いなさい、と説いているのです。しかし現実はどうでしょうか。私は自分自身の日頃の言動を省みる時、私には不可能だと思ってしまいます。
聖書は全体として読まなければならないと気付くのは、このような時です。イエス・キリストの贖罪によって生かされている私たちは、弱いまま、「アガペー」と「フィリア」の二つの交錯する愛の中で、揺れながら祈ることを許されていることが福音として伝わってきます。
●6月20日 週報巻頭言 教会員 S.M.
✣ 未完の走破 ✣
生命と命は重なりますが、生命保険といっても命保険とあまり聞きません。「いのち」には代替できない個性といういみが込められるように思えます。
『死ねない時代の哲学』(2020年)は、現在における「死」について考え込ませる本でした。著者(村上陽一郎)はカトリックの信徒ですが、安楽死(尊厳死)に深い理解を示しています。終末期医療における「いのちの質」を考えます。
「死ねない時代」という現実の中で、一方「コロナ」下では全世界で350万人の人が命を中断されています。日々、人の生と死が数字で表されます。数量になった「いのち」に不感症になりそうです。
いうまでもなくその一つ一つがかけがえのない「いのち」です。数値化できない「いのち」です。
3.11、東日本大震災のとき、100人の死があるのではない、一つの死が100あるのだ、と言った人がいました。
かけがえのなさが中断される死をめぐって、聖書が与える希望は何か。「十字架と復活」という言葉を先取りしないで、そこにたどり着く途のひとつをたどってみたいと思います。
●6月13日 週報巻頭言 板垣弘毅