✣ 平和があるように ✣
「平和の像」「平和公園」など、「平和」がついた物の名前や場所、あるいは言葉が沢山あります。みなさんは、「平和」ってどういう状態をいうのですか、と質問されたらどのように答えますか。戦争と対になっているイメージがあるので「戦争のないこと」という答が多く返ってきそうですが、そう答えながら、それではちょっと不十分だとほとんどの人が思っているはずです。
「平和」という言葉の響きは耳に心地良く、気持ちのよい感覚を共有できますからいろいろなところに気安く使われていますが、実は別の言葉で具体的に表現するにはなかなか難しい抽象語です。
イエスさまは、弟子たちを、福音を伝える者として派遣される際に、訪ねた家に入る時「平和があるように」と挨拶をしなさい、と言われました。ユダヤの挨拶の言葉は「シャローム」です。「シャローム」は、人間が至福だと思うすべてのものが完全であることを意味しています。社会的にも、自己の精神においても、安らかな状態をいうのです。
私たちは今、コロナ禍の中にいて、それぞれが不安を抱えて生きています。と同時に、ひとりの人間のかけがえのなさは神の愛の中にあることも知っています。「シャローム」隣人と痛みを共にしながら、真の平和を祈って考える時なのでしょう。
●1月31日 週報巻頭言 教会員 S.M.
✣ 味噌づくり ✣
昨日、味噌の蔵出しと、新しい味噌の仕込みが行われました。例年なら、くりくりあおぞらくらぶの子どもたちと一緒に、ワイワイガヤガヤと楽しくやるところですが、今年はコロナのために、子どもたちがいなくてさびしいなあと思いながらの味噌づくりでした。
いよいよ昨年2月8日に仕込んだ味噌の蔵出しです。どんな味噌に出来上がっているのかとワクワクしながら甕(かめ)の蓋が開けられました。とても良い出来。それに、教会で作る味噌は添加物なしで、大豆と塩と麹のみで作りますから美味しいのです。早速、1袋買って味噌汁にしていただきました。この美味しさをどう表現したらよいのでしょう。言葉が見つかりません。出来たてのフレッシュな味噌の味は、この時にしか味わえません。皆さまもぜひ味わってください。
味噌づくりは、前日から水につけておいた大豆を煮て、潰して、塩と麹を加えて混ぜ、甕に仕込む。ここまでのプロセスは、味噌づくりのベテランたちが長年培ってきたノウハウで人の手の業が生かされます。しかし、甕に蓋をしてからは、もう人の手はまったく及ばず、私たちにはどうすることもできない自然の領域−気候や風や日差し等が味噌の熟成にかかわってきます。味噌を仕込んだ後は神にお任せ。私たち人間は、1年間ただじっと待つのみです。私たちには見えない所での神の働きを思うひと時でした。
●1月24日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 1・17をおぼえて ✣
1. いくつかの季節が移り行き 時は流れて行くけれど
私の心の大きな穴は うめてもうめても ふさがらない
何度も何度もそう語り ため息ついては肩落とす
あなたに何もかける言葉 見付ける事はできないけれど
※ 人は旅人 夢のかけらを 分け合いながら 生きて行くのさ
夢は誰かと 育て 咲かすもの 三色スミレが 教えてくれた言葉
2. 街に灯が 戻り来て 人々の 靴音が変わっても
私ひとりの生命の重さ どれだけ値打ちがあるのだろう
ポツリとあなたは言うけれど あなたに出会えて ぼくはよかった
裂けた大地の上に再び かけがえのない生命が育つ
崩れたガレキのすき間から 小さな花 ひとつ咲いた
風に吹かれて しなやかに 今 小さな 生命ひとつ
※ 繰り返し
だれが植えたか 三色スミレ
地震(ナイ)の大地に 再び咲きそよぐ
(詞・曲 野中宏樹)
今日は、26年前に起こった阪神淡路大震災の祈念日。震災から2年半ほど経った時、支援にかかわった仲間たちがつくったCDの「三色スミレ」という曲です。この日をおぼえて祈ると共に、現在も様々な形で続いている被災によって苦しんでいる人々が希望を見出せるようにと祈ります。
●1月17日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 神のことばで生きる ✣
わたしの出身教会では、数ヵ月に一度の頻度で「アルトス」というチラシをつくって地域の方々に配布しています。もう35年以上続いている教会の働きです。「アルトス」は、ギリシア語で「パン」を意味する言葉です。「アルトス」というタイトルの横には、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)という聖書の言葉が記されており、人々に神の愛と祝福を伝え続けています。
パンは、人間が生きるためになくてはならないものです。食べるものがなければ栄養が不足し、生命を維持していくことができません。では、パンさえあれば人は幸せなのかというと、改めて言うまでもないと思います。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。それは、「神の祝福なしには、パンも、パンによって支えられる命も空しい」と言うことです。人間は、命のパン、すなわち神の愛と祝福の内に生かされているという確信によって、真に生きることができるのではないでしょうか。世界のグローバル化が進み、パンさえあればという価値観が世界を支配しているようなこんにち、わたしたちも「人はパンだけで生きるものではない」と言うことよりも、「神のことばだけで生きるものではない」と言う声の方が強くなっていないでしょうか。生きるには、パンだけでなく何が大切か今一度考えさせられます。
●1月10日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 新年あけましておめでとうございます! ✣
昨年は、コロナに振り回された一年でした。今年は、状況が少しでも良くなるようにと願うばかりです。新しい年も、主が、一人ひとりに伴い、それぞれの歩みを支えてくださるようお祈りいたします。
今年も、遠くから、近くから、たくさんの年賀状をいただきました。皆さんからのあたたかい言葉に励まされ、祈られていることの幸いを感謝しています。
尊敬する恩師からの年賀状に、聖書協会共同訳の箴言の言葉がありました。
「惜しまず与えても富の増す人があり 物惜しみをしても乏しくなる者もある。」(箴言11:24)
「弱い人を虐げる者は造り主を見くびる。造り主を尊ぶ人は貧しい人を憐れむ。」(箴言14:31) ※憐れむ=支援する、引き立てる
コロナの中、格差が益々拡大する社会で、私たちは、神に造られた者として、イエス・キリストの十字架の恵みに生かされている者として、今日的課題の中をどう生きていくのか示されているように思います。弱い立場の人が益々弱くされている状況の中、箴言の言葉は私たちを励まします。
●1月3日 新年礼拝 週報巻頭言 牧師 村上 千代