✣ 壁を低く、共に ✣
今日から受難週です。私たちは、イースター前の一週間を、イエスの十字架の苦難と死を記憶する時として過ごします。
イエスは捕らえられ、裁判にかけられます。それまでイエスに従っていた群衆が、手の平を返し、「イエスを十字架につけろ」と、叫び続けました。イエスには何の罪も見いだせなかったにもかかわらず、イエスに死刑が宣告されました。十字架刑は、ローマに反逆した者に課せられる極刑です。イエスは鞭うたれ、嘲られ、侮辱され、十字架につけられました。そして苦しみと孤独の極みの中で絶望し、「わが神よ、わが神よ、何故私をお見棄てになったのか」(岩波訳)と叫んで息を引き取りました。イエスは絶望と共に死なれたのです。不条理の死でした。しかし聖書は、神が死んだイエスを復活させてくださったと証ししています。教会は、このイエスの十字架と復活の出来事を通して示された神の愛を証しし、人々と共に生きる群れです。
イエスが十字架で、大声で叫び息を引き取られた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たと書かれています。分断をつくりだしていた幕が真っ二つに裂け、民族や性別、等、人々を分断する隔ての壁がキリストの十字架の死によって壊されたのです。主の十字架によって贖われた教会は、あらゆる壁を低くし、共に生きる教会を目指して歩むものでありたいと願います。
●3月28日 受難週 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 神の助けを求めて祈る ✣
教会暦で言えば、今は受難節(レント)の中にあります。十字架へと向かうイエスの苦難をおぼえて、祈りつつ過ごします。
イエスは、これから自分の身に起ころうとする事がいよいよ迫ってきたことを知り、祈るために弟子たちを連れて山に登ります。そして、ゲッセマネというところで、三人の弟子たちを伴い、他の弟子たちと離れた場所で祈られました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。そう言って、十字架を前に、苦しみもだえながら祈るイエス。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。十字架刑は最も残酷で苦痛を伴う刑です。不安や恐怖、苦悶しながら祈るイエスですが、当の弟子たちは共に目を覚ましていることができずに、とうとう眠ってしまいました。イエスは、孤独と絶望の中で祈り続けた末に、十字架から逃れさせてほしいという祈りから「あなたの御心が行われますように」と祈りが変えられていきました。ここに至るまでにイエスの悲しみや苦しみがどれほどのものだったか。
わたしたちは、悲しみ苦悶するイエスと共に目を覚ましていることのできなかった弟子たちと同じ弱さを抱えており、他者の痛みや苦しみ悲しみに、真に寄り添うことのできない者です。イエスは、わたしたちのその弱さをご存じで、なお、わたしたちに「共に」と語りかけてくださるのです。
●3月21日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ わたしにつながっていなさい ✣
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネ福音書15:5)
ぶどうの木は見た目には大地に踏ん張り、堂々と枝を伸ばす大木ではありません。幹は曲がり、ぶどう棚や支えが無ければ立っていることもできず、木としての材は柱や板にもならず、薪にしかならないような存在です。でも、木としての存在を誇る代わりに、厳しい環境の中でもひたすらつながっている枝に養分を送り、良い実を結ぶことに全てを注ぎます。その生き方はただひたすらにつながっているわたしたちのために、貧しく弱く、罪人とさげすまされながら十字架で死なれたイエスの姿と重なります。
主は枝であるわたしたちに、枝の先に実を結ぶことを期待されているようです。また、せっかくつながっている恵みを失うことがないようにとも言われます。誰かと、何かと、つながって生きることが赦されるわたしたち。この大切なつながりの中心に、イエスさまご自身を示して「わたしにつながっていなさい」と言われます。互いにつながりにくいコロナの状況に加え、牧師が不在となる試練の時もなおこの呼びかけを受け止めたいと願います。
●3月14日 週報巻頭言 教会員 W.M.
✣ 3・11をおぼえて ✣
3月11日、東日本大震災発生から10年を迎えます。今年も、東日本大震災現地支援委員会から祈りの言葉が届きました。ともすれば、「被災地」のことが遠くなってしまう私たちですが、現地から発信される祈りによって、鈍くなった心が目覚めさせられます。
「…コロナウイルス感染症の影響の中、緊張した一年を歩んできましたが、2011年3月に発令された原子力緊急事態宣言は未だ解除されていないことも忘れてはいけません。これからも放射性物質による汚染と健康被害の恐れは続きます。私たちは引き続き目を覚ましつつ、祈りを合わせていきたいと思います。また、2021年2月13日には、震度6強の福島沖地震が発生しました。この地震は、東日本大震災の余震であると言われており、震災が今も続いていることにショックを受けました。東日本大震災からの10年を思い巡らしている時期の大地震だっただけに、精神的なダメージは計り知れません。…また近いうちに東日本大震災レベルの地震が発生するのではないかと不安な毎日を過ごしています。ぜひ、主の守りがありますようにお祈りください。」(現地支援委員会委員長 金丸真)
本日、お手元に「東日本大震災から10年を数えての祈り」を配布しています。苦難の中で悲しみ、痛んでいる人たちをおぼえ、共に祈りを合わせたいと思います。
●3月7日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 十字架の建つ幕屋的つながり ✣
自分は、学生時代、小池辰雄先生主宰の「武蔵野幕屋」から教会通いを開始しました。
ある日、小池先生に、教会と同じ礼拝をお捧げしているのに「幕屋」と命名されたのはどうしてですかとお尋ねしました所、先生はお手元から、十字架を組み入れた手作りの幕屋の模型を出され、次のように説明して下さいました。普通の幕屋(テント)は、地上に支柱を立て、その頂点が地上の複数の支点と結ばれ、テントが構成されているが、ここの幕屋は地上の中心に十字架(主イエスの象徴)が立ち、その頂点が多数の信徒と結ばれ幕屋が形成されている。そして地上の各信徒は、夫々十字架を見上げ、更にその先の天を仰ぎ、天からのお導きを、十字架を通して頂いている。また地上の信徒間は、勿論、直接自由に関わりを持つことが出来るが、出来れば十字架を通しての交わりが叶えばそれが望ましいと言うご説明を先生から頂きました。私達の栗ヶ沢教会もこの4月からいよいよ無牧師となります。しかしその無牧師の期間がどの位続くかわかりませんので、それを克服する工夫が必要となりましょう。その一つの工夫として、出来れば精神的には十字架の支柱を持つ幕屋的な、教会員のつながりをしっかり持って無牧の試練を乗り切って行くことも考えられるのではないでしょうか。
●2月28日 週報巻頭言 教会員 S.S.