✣ 永遠をあおぐ信仰 ✣
現代社会では「持続可能性」の追求が大きな課題となっています。これは地球環境、経済、社会のさまざまな問題が深刻化する中で、人類の生存・発展の永続性を求めていくことです。皆さんもどこかで「SDGs」という言葉を見聞きしたことはないですか。それら自体はとても大事なことです。しかし見落としていることがないでしょうか。一番大事なことです。それは、人間一人一人の「いのちの永続性」です。人はたとえ全世界の持続性を手に入れたとしても、生まれながらの人間には自分のいのちの持続性を得ることはできません。これに対して人は、毎日慌ただしく繰り返される「日常」の中にどっぷりと自分を埋没させることで、死という根源的な問いを忘却し、逃げてきました。この問題を直視することは耐えられないからです。
さて、人はどうしていのちを失うのか、そしてどうすれば永遠のいのちが得られるのか。この根源的な問いに対して、聖書は明確な答えを与えています。それが福音です。神は愛するひとり子を犠牲にすることによって、御子を信ずる者の罪の代価をすべて支払い、御子のもとに買い戻してくださいました。これによって罪赦されるものとされた私たちには、永遠のいのちが与えられることになりました。私たちの信仰も、この永遠の視座から考えていく必要があります。なぜなら、永遠の視座でなければ理解できないことが人生には少なくないからです。
●6月6日 神学校をおぼえる礼拝 週報巻頭言 神学生 柏 雅之
✣ 解き放たれて ✣
この1年、コロナ禍で都内は勿論、旅行も控えざるを得ない状況でした。私には、半同居の娘家族への感染も及ぶと思えたからです。自分だけの事ならば、もしかしたら「Go to トラベル」にも乗っかってしまったかも。そんな誘惑にもめげず、いつの間にか周りの自然をじっくり見ている自分がいました。また、より美味しい物を家族に食べさせてやりたいと、時間も気持ちも注いでいる自分がいました。
去年の春にはホーローの大きな容器に糠床を作り、幼い時「母の糠漬けが美味しいのは当たり前」と思っていた、懐かしい味に出合いました。それまでは出かける時間も多かった分、糠床はタッパーで冷蔵庫においていました。かき混ぜる時間を省き、尚且つ腐らせないためです。今は子ども達から糠漬けのリクエストがあり、我が家に集まっての食事の時に野菜の漬かり具合を考えて、春野菜を漬け込みます。「美味しい」と言う笑顔が見たいからです。
最近は4か月の孫のぬくもりと笑顔をもらいながら、抱っこして散歩に行きます。まだ何とか私の体は保っていますが…。散歩の途中でよく蝶々を見かけます。我が家の庭の山椒や、みかんの木にも、揚羽蝶の幼虫が多いのも頷けます。香りに惹きつけられているのでしょう。そうだ、私の心も蝶のように飛んでいるんだわ! コロナ禍に在っても。
●5月30日 週報巻頭言 教会員 H.Y.
✣ パウロの生涯 ✣
パウロは、小アジアのタルソスで裕福な家庭に生まれ育ち、エルサレムでファリサイ派の厳格な教育を受けたユダヤ教徒でした。キリスト教を異端視し、徹底的に迫害する立場を貫いていました。パウロは、シリアのキリスト教徒を逮捕しエルサレムに連行すべくダマスコに向かう途中、イエスの声を聞きます。そしてこの出来事をきっかけに劇的に回心し、キリスト者として立たされていきました。キリスト教を迫害していたパウロの回心に驚き、疑う人や恐れる人も多くいました。それでもパウロは、イエス・キリストの正しさ・教えを広めるべく、小アジアやギリシアへの伝道旅行に3回出掛けました。1回目は同胞バルナバと共にキプロス島を中心に宣教し、2回目以降はギリシアの地まで足を延ばし、アテネ、コリント、エフェソなどを巡ってエルサレムに帰って来ています。パウロはギリシア語を話すことができ、またローマの市民権も持っていたので、ユダヤ人以外の人々へも宣教することができました。しかし各地で、鞭で打たれたり、石を投げつけられたり、不法な監禁や投獄など、度重なる迫害を受けましたが、少しもひるむことなく立ち向かって行ったと伝えられています。
晩年は、望んでローマに居を移し宣教を行いましたが、ローマで大火が起こり、キリスト教徒の放火と断定され、パウロも処刑されて殉教したと伝えられています。
●5月23日 ペンテコステ 週報巻頭言 教会員 O.M.
✣ 彼女を記念して ✣
イエスは完結した思想を、人に押しつける形で教示することはしませんでした。
神の国のたとえや、それを示唆する象徴行動などに現れているように、相手に対する問いかけとして提示しています。しかもこの問いかけに対する答えを、自ら提出することはせず、それへの応答を相手に提示するように促すのが、イエスの言行の特徴なのです。
イエスの言葉や行動に関する伝承は、おそらく生前のイエスの問いかけに対する応答として言い伝えられたのであり、福音書記者たちも、彼らが採用した福音書を介して、問いかけるイエスに対する応答の業として、それぞれの福音書を編んだのです。
だとすれば、福音書の読み解きもその過程において、出会うイエスの問いかけに対する応答の試みということになるでしょう。
必然的に、問いかけるイエスに出会っていただきたいし、できれば一人ひとりが自らの主体性と責任において、イエスの問いかけに応えて欲しいと願っています。
●5月16日 週報巻頭言 教会員 W.E.
✣ “キリスト者と呼ばれて”のみ言葉に導かれて ✣
今週は使徒言行録の学びの中で、アンティオキア教会で、はじめてユダヤ人以外の異邦人に主イエスについて福音が述べ伝えられました。それから2000年の時を経て、今も私達に福音が伝えられています。「キリスト者」として呼ばれた方々の聖霊の導きに裏打ちされた、力強い伝道の姿がなければできなかったことです。
私は、現役の時、生活のすべてを仕事に懸け、地域の方々との交わりを持つ余裕もなく過ごしてまいりました。勿論、自らがクリスチャンであるということを会社の人に口外することもありませんでした。現役を引退して10年以上がたちましたが、今は地域の方々との交わりを大切にしています。
今勤めている職場の方々、町内会の役員として、主催する地域の方々とのゴルフ会、近所にある温泉でのお付き合い、愛犬の散歩で出会う方々、そして家庭集会(現在はコロナ感染防止のため休止中)など、たくさんの地域の方々との交わりを持っています。そしてその多数の方々は、私がクリスチャンであることを知っています。
しかし、年に一回、教会でもたれる“気軽にクラシック”の音楽会にお誘いして教会を知ってもらうこと以外、日々の生活の中で伝道活動をしてまいりませんでした。
今回の使徒言行録の学びを通して、自らの信仰の在り方が問われました。キリスト者=クリスチャンとして、地域の方々との交わりの中で、キリストを伝道していくことが求められていることを、改めて気づかされました。
●5月9日 週報巻頭言 教会員 H.T.