✣ 彼女を記念して ✣
イエスは完結した思想を、人に押しつける形で教示することはしませんでした。
神の国のたとえや、それを示唆する象徴行動などに現れているように、相手に対する問いかけとして提示しています。しかもこの問いかけに対する答えを、自ら提出することはせず、それへの応答を相手に提示するように促すのが、イエスの言行の特徴なのです。
イエスの言葉や行動に関する伝承は、おそらく生前のイエスの問いかけに対する応答として言い伝えられたのであり、福音書記者たちも、彼らが採用した福音書を介して、問いかけるイエスに対する応答の業として、それぞれの福音書を編んだのです。
だとすれば、福音書の読み解きもその過程において、出会うイエスの問いかけに対する応答の試みということになるでしょう。
必然的に、問いかけるイエスに出会っていただきたいし、できれば一人ひとりが自らの主体性と責任において、イエスの問いかけに応えて欲しいと願っています。
●5月16日 週報巻頭言 教会員 W.E.
✣ “キリスト者と呼ばれて”のみ言葉に導かれて ✣
今週は使徒言行録の学びの中で、アンティオキア教会で、はじめてユダヤ人以外の異邦人に主イエスについて福音が述べ伝えられました。それから2000年の時を経て、今も私達に福音が伝えられています。「キリスト者」として呼ばれた方々の聖霊の導きに裏打ちされた、力強い伝道の姿がなければできなかったことです。
私は、現役の時、生活のすべてを仕事に懸け、地域の方々との交わりを持つ余裕もなく過ごしてまいりました。勿論、自らがクリスチャンであるということを会社の人に口外することもありませんでした。現役を引退して10年以上がたちましたが、今は地域の方々との交わりを大切にしています。
今勤めている職場の方々、町内会の役員として、主催する地域の方々とのゴルフ会、近所にある温泉でのお付き合い、愛犬の散歩で出会う方々、そして家庭集会(現在はコロナ感染防止のため休止中)など、たくさんの地域の方々との交わりを持っています。そしてその多数の方々は、私がクリスチャンであることを知っています。
しかし、年に一回、教会でもたれる“気軽にクラシック”の音楽会にお誘いして教会を知ってもらうこと以外、日々の生活の中で伝道活動をしてまいりませんでした。
今回の使徒言行録の学びを通して、自らの信仰の在り方が問われました。キリスト者=クリスチャンとして、地域の方々との交わりの中で、キリストを伝道していくことが求められていることを、改めて気づかされました。
●5月9日 週報巻頭言 教会員 H.T.
✣ コロナ下の教会 ✣
先月の下旬、政府は二週間余りの期限を定め、三度目の緊急事態宣言を発出しました。全国的に変異株ウイルスによる感染者の比率が高まる中、多くの人が不安や脅威を覚えながら、ゴールデンウイークを過ごしています。
丸一年以上に及ぶ「コロナ自粛」によって、どこの教会も信徒同士で相手の顔を見ながら語り合い、交わりを深める機会が失われています。他派の教会の話を聞くと、この一年間、一度も教会の礼拝に出席したことがないという会員の方が何人もいると言います。このような現状は、教会の働きの面から見ても、大変な痛手です。
初代教会は、信徒たちが、み言葉と祈りを分かち合い、相互に交わることで成長しました。使徒言行録2章42節には、次のように記されます。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」立派な教会が次々と建てられた、とは書かれていません。み言葉と祈り、相互の交わりと共同の食事を通して、一人ひとりの信仰が強くされたというのです。
会堂はなかった。けれども、教会は成長したのです。困難な今の時代ですが、教会には、なおできることがあります。それは聖書の言葉にしがみつくこと、他者のために祈ること、そして主にある交わりを深めることです。そのことを胸に刻んで、収束までの期間を過ごしたいと思います。
●5月2日 週報巻頭言 木村 一充(大泉バプテスト教会 牧師)
✣ 私もその中にいる ✣
芽吹きの春が来ました。リボべジという言葉をご存知でしょうか? リボーン(再生)ベジタブル(野菜)の略で、野菜のヘタや根元を水につけたり土に植え替えしたりして、野菜を再生させることです。
私も今、キッチンで豆苗と人参の水耕栽培を楽しんでいます。豆苗は水をはった苺パックにつけて置くと、2〜3日で一斉に芽が出ます。まめに水を替えると、数日で7〜8センチになります。その芽は1本残らず、すべて光が差し込む窓の方向へ伸びます。苺のパックを反転させると、翌日には反対側の、やはり光の方を向いて伸びています。「光に歩めよ」を地でいく豆苗です。人参は水が多いと腐りやすいので、控えめにします。ある日、水やりを忘れてしまい、10センチほどに伸びた茎が真ん中から折れ曲がってしまいました。慌てて水を注ぐと、翌日にはシャキッと起き上がり、葉は天に向かって風にそよいでいました。「命の水」の尊さを教えてくれる人参です。
主は「私もその中にいる」と言って下さいます。今回も光に向かって顔を上げよう! 命の水を受け取ろう! 私たちは、主により日々新たに再生されます。
●4月25日 週報巻頭言 教会員 I.Y.
✣ 自由度と自由意志 ✣
自然災害について私たちは、どのように受け取ればいいのでしょうか?
1)自然(じねん)自らあるもの、自ら生ずるもので仕方がない
2)天罰だ、試練だ、悔い改めよ
3)神様が人を苦しめ殺すのは理不尽だ、神も仏もあるものかも仏もあるものか!
すべては御心のままに…と達観できれば良いのですが…。
人間の視点ではなく神様の視点で自然を眺めてみましょう。
創世記1章31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」
神の創造の御業が完全無欠なものであると捉えるか、それは「極めて良かった」をどのように聖書解釈するかにかかっています。「三位一体の神」理解と同じように文脈から、章全体から、聖書全体から本質的なところを読み取れば…。神様は人には自由意志を与え、生物には自由行動を与え、無機物には自由度を与えられたのではないでしょうか?
人知れず暗闇の洞窟の中で数百万年かかって成長していく結晶の美しさ。
「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」マタイ6章29節
神様が無機物に与えられた自由度による自然災害はあくまでも4次元の物質世界の中で起こっていることであり、それを私たちがどのように捉えるかは各自の自由意志にかかっていると思います。
●4月18日 週報巻頭言 教会員 K.T.