✣ 互いに愛し合う ✣
ギリシャ語には、「愛」を表す語が4種類もあるそうです。そのうち新約聖書で使われているのは、「アガペー」と「フィリア」の二つです。「アガペー」は神の愛を意味し、無償の愛です。「フィリア」は友情や恋愛、あるいは美しいものを求める心など、人間相互の愛の関係や愛しいと思うものへの愛情を意味しています。ヨハネの手紙の著者は、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と繰り返し述べています。そして彼は「互いに愛し合う」根拠を、「神は愛だからです」という言葉に置いています。また3章では、キリストを示されたから人は愛を知った、言い換えれば、キリストに出会う前は人は愛を知らなかった、と言っています。つまりこの手紙の著者は、「アガペー」の愛でお互いを愛し合いなさい、と説いているのです。しかし現実はどうでしょうか。私は自分自身の日頃の言動を省みる時、私には不可能だと思ってしまいます。
聖書は全体として読まなければならないと気付くのは、このような時です。イエス・キリストの贖罪によって生かされている私たちは、弱いまま、「アガペー」と「フィリア」の二つの交錯する愛の中で、揺れながら祈ることを許されていることが福音として伝わってきます。
●6月20日 週報巻頭言 教会員 S.M.
✣ 未完の走破 ✣
生命と命は重なりますが、生命保険といっても命保険とあまり聞きません。「いのち」には代替できない個性といういみが込められるように思えます。
『死ねない時代の哲学』(2020年)は、現在における「死」について考え込ませる本でした。著者(村上陽一郎)はカトリックの信徒ですが、安楽死(尊厳死)に深い理解を示しています。終末期医療における「いのちの質」を考えます。
「死ねない時代」という現実の中で、一方「コロナ」下では全世界で350万人の人が命を中断されています。日々、人の生と死が数字で表されます。数量になった「いのち」に不感症になりそうです。
いうまでもなくその一つ一つがかけがえのない「いのち」です。数値化できない「いのち」です。
3.11、東日本大震災のとき、100人の死があるのではない、一つの死が100あるのだ、と言った人がいました。
かけがえのなさが中断される死をめぐって、聖書が与える希望は何か。「十字架と復活」という言葉を先取りしないで、そこにたどり着く途のひとつをたどってみたいと思います。
●6月13日 週報巻頭言 板垣弘毅
✣ 永遠をあおぐ信仰 ✣
現代社会では「持続可能性」の追求が大きな課題となっています。これは地球環境、経済、社会のさまざまな問題が深刻化する中で、人類の生存・発展の永続性を求めていくことです。皆さんもどこかで「SDGs」という言葉を見聞きしたことはないですか。それら自体はとても大事なことです。しかし見落としていることがないでしょうか。一番大事なことです。それは、人間一人一人の「いのちの永続性」です。人はたとえ全世界の持続性を手に入れたとしても、生まれながらの人間には自分のいのちの持続性を得ることはできません。これに対して人は、毎日慌ただしく繰り返される「日常」の中にどっぷりと自分を埋没させることで、死という根源的な問いを忘却し、逃げてきました。この問題を直視することは耐えられないからです。
さて、人はどうしていのちを失うのか、そしてどうすれば永遠のいのちが得られるのか。この根源的な問いに対して、聖書は明確な答えを与えています。それが福音です。神は愛するひとり子を犠牲にすることによって、御子を信ずる者の罪の代価をすべて支払い、御子のもとに買い戻してくださいました。これによって罪赦されるものとされた私たちには、永遠のいのちが与えられることになりました。私たちの信仰も、この永遠の視座から考えていく必要があります。なぜなら、永遠の視座でなければ理解できないことが人生には少なくないからです。
●6月6日 神学校をおぼえる礼拝 週報巻頭言 神学生 柏 雅之
✣ 解き放たれて ✣
この1年、コロナ禍で都内は勿論、旅行も控えざるを得ない状況でした。私には、半同居の娘家族への感染も及ぶと思えたからです。自分だけの事ならば、もしかしたら「Go to トラベル」にも乗っかってしまったかも。そんな誘惑にもめげず、いつの間にか周りの自然をじっくり見ている自分がいました。また、より美味しい物を家族に食べさせてやりたいと、時間も気持ちも注いでいる自分がいました。
去年の春にはホーローの大きな容器に糠床を作り、幼い時「母の糠漬けが美味しいのは当たり前」と思っていた、懐かしい味に出合いました。それまでは出かける時間も多かった分、糠床はタッパーで冷蔵庫においていました。かき混ぜる時間を省き、尚且つ腐らせないためです。今は子ども達から糠漬けのリクエストがあり、我が家に集まっての食事の時に野菜の漬かり具合を考えて、春野菜を漬け込みます。「美味しい」と言う笑顔が見たいからです。
最近は4か月の孫のぬくもりと笑顔をもらいながら、抱っこして散歩に行きます。まだ何とか私の体は保っていますが…。散歩の途中でよく蝶々を見かけます。我が家の庭の山椒や、みかんの木にも、揚羽蝶の幼虫が多いのも頷けます。香りに惹きつけられているのでしょう。そうだ、私の心も蝶のように飛んでいるんだわ! コロナ禍に在っても。
●5月30日 週報巻頭言 教会員 H.Y.
✣ パウロの生涯 ✣
パウロは、小アジアのタルソスで裕福な家庭に生まれ育ち、エルサレムでファリサイ派の厳格な教育を受けたユダヤ教徒でした。キリスト教を異端視し、徹底的に迫害する立場を貫いていました。パウロは、シリアのキリスト教徒を逮捕しエルサレムに連行すべくダマスコに向かう途中、イエスの声を聞きます。そしてこの出来事をきっかけに劇的に回心し、キリスト者として立たされていきました。キリスト教を迫害していたパウロの回心に驚き、疑う人や恐れる人も多くいました。それでもパウロは、イエス・キリストの正しさ・教えを広めるべく、小アジアやギリシアへの伝道旅行に3回出掛けました。1回目は同胞バルナバと共にキプロス島を中心に宣教し、2回目以降はギリシアの地まで足を延ばし、アテネ、コリント、エフェソなどを巡ってエルサレムに帰って来ています。パウロはギリシア語を話すことができ、またローマの市民権も持っていたので、ユダヤ人以外の人々へも宣教することができました。しかし各地で、鞭で打たれたり、石を投げつけられたり、不法な監禁や投獄など、度重なる迫害を受けましたが、少しもひるむことなく立ち向かって行ったと伝えられています。
晩年は、望んでローマに居を移し宣教を行いましたが、ローマで大火が起こり、キリスト教徒の放火と断定され、パウロも処刑されて殉教したと伝えられています。
●5月23日 ペンテコステ 週報巻頭言 教会員 O.M.