✣ 平和―神の義の実現 ✣
本日は8・15、終戦記念日です。76年前のこの日、わが国はポツダム宣言を受け入れて無条件降伏し、玉音放送によって太平洋戦争は終わり、占領軍の統治下におかれました。GHQ(General Headquarters=「連合国軍最高司令官総司令部」)は、わが国の民主化を実現するために、平和憲法の制定、極東軍事裁判の実施、普通選挙制度の導入、財閥の解体、農地解放、公職追放、教育制度の改革など、多方面にわたる改革を進めました。
あの日から76年たった今も、先の大戦の傷跡は深く残っています。つい先日も、広島高裁で争われた「黒い雨訴訟」の判決を受けて、政府は上告しないという判断を下しました。8月を迎えるたび、年配の方は戦後の混乱期を必死の思いで生きたあの頃を思い起こすことでしょう。
現在のわが国の平和は、先の大戦に対する深い反省に依拠しています。「二度と同じ過ちは繰り返さない!」という強い決意が、今の平和憲法の根底にあるのです。
ひとつの国が戦争を決断するには大きなエネルギーが必要ですが、それと同じくらいのエネルギーが「二度と戦争をしない」という決断をするために必要です。そのためには「信仰」=「神の義の実現への意志」が必要なのではないでしょうか。ゆえに、8・15は自らの信仰を顧みる日でもあります。
●8月15日 平和祈念礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
✣ 大切にしたい教会の「交わり」✣
教会のなすべき務め(mission)のなかで、とくに大切な働きの一つであると思われるものに「交わり」があります。キリスト者の交わりとは、「イエス・キリストを通して」の、また「イエス・キリストにあって」の交わりのことです。私たちはイエス・キリストによって、互いに結ばれているのです。
しかし、このことは同時に次の二つのことを意味しています。第一に、ひとりのキリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰を分かち合うために、ほかのキリスト者を必要とするということ。第二に、ひとりのキリスト者は、ただイエス・キリストを通してのみ、ほかのキリスト者の人格に関わるということです。イエス・キリストは、私たち信徒がお互いを深く理解しあうための仲立ち(仲保者)となってくださるのです。
フィリピの信徒への手紙2章で、パウロは「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え(なさい)」と勧告しています。教会の交わりを深めるために大事なことは、何といっても、お互いを尊重し合うことです。相手の欠点を非難したり、責めたりするのではありません。そうではなく、そのような弱さを抱えている人間としてお互いを受け入れるのです。教会の交わりには、寛容と忍耐が必要です。それが、神の家族となるためのスタートラインなのです。
●8月8日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
✣ 伝道―教会の大切な働き ✣
教会とは、イエス・キリストを主と信じる者たちが、イエスの名のもとに集う場所です。教会とは建物のことではありません。使徒パウロの時代に会堂はありませんでした(当時のローマ帝国では、会堂建築は認められませんでした)。それにもかかわらずキリスト教は帝国全体に浸透し、やがてコンスタンチヌス帝の時代に公認されることになります(313年 ; ミラノ勅令)。ローマ帝国内には、さまざまな人種や民族が暮らしていましたが、帝国の治安は悪化するばかりでした。そのような中で、すべての人に平等に愛を持ってかかわった教会の働きが、もはや無視できないほどに大きな勢力となっていたのです。
帝国内で、信徒の数が増えていった要因のひとつに、キリスト教がきわめて伝道的な宗教であったことが挙げられます。そのため、初代教会の時代、キリスト教徒は迫害されました。しかし、厳しい迫害の下にあっても教会は伝道の働きを止めませんでした。そして、最後は、ローマの国教に定められます。伝道は教会の「命」だったのです。
栗ヶ沢教会からお招きをうけ、本日から牧師として着任いたします。貧しき器であり、ご期待に応えることができるかどうか全く自信はありません。しかし、教会を愛し、この地域を愛し、皆さまに仕えつつ、伝道の働きをしたいと願っています。皆さまのお支えを、お願いいたします。
●8月1日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
✣ 忍耐と祈り ✣
『聖書教育』によりますと、パウロは「人は信仰により義とされる」(信仰義認)と説いておりますが、ヤコブは「人は行いによって義とされる」と説き、マルチン・ルターにより「藁の書」と酷評されましたが、ヤコブはむやみに「行う」ことに固執してはおらず、また義を頂く条件として「行い」を勧めているのではなく、ヤコブ自身が「自由をもたらす完全な律法(注:イエス・キリストのこと)を一心に見つめ守ろう」(1章25節)とした結果、み言葉こそが人を突き動かし、立ち上がらせ、神様に喜ばれる良い「行い」へと向かわせるのだ、そして黙想の中で、心を空しくして、み言葉に聞き入る、受け入れる、その時に与えられる思いを神様の導きだと信じる、そうすればきっと良い「行い」へと導かれる、と言うのがヤコブの手紙であります。
本日の学びは「忍耐と祈り」(ヤコブ5章7〜20節)であります。そして前半は「忍耐」の大切さが説かれ、我慢の先に希望を見出し、厳しい現実を耐え抜くことが大切だ、忍耐した人は幸いだ、主に信頼し、終末に希望を置くことが出来るからだ、と説かれています。中間は、信仰のあるべき姿が示され、謙虚に生き抜きなさいと説かれています。そして後半は、「祈り」の大切さが説かれ、4つの「祈り」を例に、主様がお癒し下さることを信じ、希望を失わず、「忍耐」し「祈り」なさいと勧められています。
●7月25日 週報巻頭言 教会員 S.S.
✣ 和解され、もたらされる平和 ✣
ヤコブというと、私はどうしてもイサクの息子のヤコブを思い出してしまいます。しかし英語では、彼の名はJacobです。ヤコブの手紙の筆者はJamesという表記です。面白いもので、Jacob(ジェイコヴ)はJames(ジェイムス)でもあり、スペイン語になるとDiego(ディエゴ)、Tiago(ティアゴ/チアゴ)などになります。San Diego(サン・ディエゴ=アメリカの都市)、もしくはサッカー好きの人なら ディエゴ・マラドーナ が浮かびますね。
ヤコブの手紙の筆者ですが、様々な説がある中で、今日は敢えてイエスの弟のヤコブ(James)がその人だとして読んでいきます。彼は生前のイエスを信じていなかったものの(マルコ6:1〜6)、復活のイエスに出会い(Iコリ15:7)、一転、イエスの信仰を伝える者となり、後にはエルサレム教会の指導者にまでなりました。弟ヤコブのこの180度回転は「目からうろこのパウロ」にも重なります。
ヤコブは、知恵を区別できないところに平和はないと言います。歴史に繰り返されるこの世の争いは命を奪い、私たちの平穏は失われます。紛争・戦争だけでなく、コロナ問題も争いと言えましょう。人は当たり前を失って、初めて当たり前がどんなに感謝すべきものだったかに気づく、愚かな者です。でも、気づいて神様に感謝する時、それは「平和を実現する人は良い実を結ぶ」に値し、「神様に和解されて平和がもたらされる」ことに通じるのではないかと思うのです。
●7月18日 週報巻頭言 教会員 K.T.