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イエス・キリストの復活の出来事を体験した弟子たちが、その後どのようにして信仰的に立ち直り、また、どのようなかたちでエルサレムに再び集結して最初の教会を立てたのか、歴史的な意味における「事実」について、残念ながら新約聖書には詳しく記されていません。
ヨハネによる福音書21章に、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」という言葉があります。復活のイエスは、何度も弟子たちの前にご自身を現された、あるいは、現れなければならかった。そうしなければ弟子たちには、イエスが復活したことがリアルに感じられなかった、イエスの復活が分からなかった、ということではないでしょうか。
本日の聖書箇所には、失意のうちにガリラヤに帰り、元の職業であった漁師の仕事を再開しようとした7人の弟子たち、とりわけシモン・ペトロの前に、イエスがご自身を現した出来事が書かれています。ペトロと復活のイエスとの再会のシーンを描くこの記事は、復活を描いた数ある記事の中でも、最も印象的なものであると言って良いように思われます。本日はこの場面から、復活の主に出会うとはどういうことかを、ご一緒に読んでみたいと思います。
●4月24日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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イエスが十字架上で息を引き取ったのは、金曜日の午後3時過ぎのことでした。遺体は、その日の内にローマの兵士たちによって下ろされ、引き取りを申し出たアリマタヤのヨセフによって、彼の園に移送されました。ヨセフは、主の遺体を亜麻布にくるみ、掘ったばかりの新しい墓に納めました。イエスの母マリアと、マグダラのマリアがそこに一緒に同行して、イエスの遺体が納められた場所を見届けました。
翌日はユダヤの安息日(土曜日)であったため、律法の規定により、遠方への外出はできませんでした。そこで彼女たちは、安息日が明けた翌々日(日曜日)の朝早くに、墓に向かって出かけました。イエスの葬りが簡易的にしかなされていなかったので、遺体に油を塗って改めて丁重に葬るために、香油や包帯を買いそろえて、そこに向かったのです。
彼女たちが目的を果たすためには、墓の入り口を塞いでいるあの大きな石を転がして、墓を開封することが必要でした。しかし彼女たちの力では、とてもできそうにないことだったので、彼女たちにとってそのことは、一番の心配事だったと思われます。ところが、墓に着いた時、驚くべきことが起こったのです。
●4月17日 イースター礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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本日の聖書箇所には、イエスが十字架を負わされ、茨の冠をかぶってカルバリの丘への道を歩んでゆく途中で起きた出来事が、書き記されています。
その当時ローマの兵士たちが駐屯していた「アントニオ要塞」から、イエスが息を引き取った場所とされる「聖墳墓教会」までのおよそ500メートルの道を、ラテン語で「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」と呼びます。この道は、印象的な聖書の記述ゆえに、今は観光名所となっています。
本日より受難週が始まりますが、エルサレムはちょうど今ごろ、世界中からの観光客と巡礼者たちが訪れて、さぞかし賑わっていることでしょう。
イエスが負っていた十字架を思いがけず負わされる羽目になったキレネ人シモンという人物が、この聖書箇所に登場する第一の人物です。第二に、嘆き悲しむ婦人たちが登場します。これらの人々は、イエスの十字架を理解する上で、重要な意味を持つ人物として描かれています。主の十字架への道に同伴したこれらの人々の心の中を想像しながら、本日の箇所を読みます。
●4月10日 受難週 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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4月になりました。今週から教会の新年度がスタートします。まずは本日の礼拝の中で、教会学校奉仕者任命式をおこないます。いまだにコロナ感染症の勢いが収まらないため、なお暫くの間はCS分級を再開することはできませんが、各クラスのリーダーと書記を選任して、コロナが収束するのを見届け次第速やかに分級再開ができる体制を整えます。
また、今年度より毎月、第1週の主日礼拝の中で、牧師からの「招き」の時間を設けます。説教後の祈りの後、牧師から信仰の決心を促す「招きの言葉」が発せられます。新たに信仰の決意をされる方、他教会から当教会に転籍する決意をされた方は、牧師がお招きしますので、その招きに応えるかたちで、応答の賛美歌が歌われている間に会堂の前の方(牧師の立っている所)まで進み出てください。その進み出は、一つの大きな意思表示となりますので、慌てる必要はありません。十分に時間をかけて、「神が示されるその時」を祈りつつ求めてください。決心される方の上に、神さまの恵みと祝福が豊かにありますように、心からお祈りしております。
●4月3日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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主の晩餐式は、洗礼(バプテスマ)と並んでプロテスタントの教会で執行される、二つの礼典の中の一つであります。カトリック教会では礼拝の中心に置かれ、「聖体拝領」と呼ばれる秘跡(サクラメント)として位置付けられています。
しかし、プロテスタントの教会は主の晩餐式を「礼典」と呼び、「サクラメント」とは呼びません。これは、「神による救済は人間のおこないによるのではなく、信仰のみによる」という使徒パウロの教え(ローマの信徒への手紙、ほか)から、晩餐式の執行そのものを救いの条件とは考えていないからです。
ただ、私たちにとって主の晩餐式が、洗礼と並んで目に見える救いのしるしであることは否定できません。特に晩餐式は洗礼式と異なり、教会員全体がこれに参与し、パンとぶどう酒を「分かち合う」出来事であるとともに、これを繰り返しおこなうことで主の十字架と復活を想起する記念の出来事でもあります。この主の晩餐式にあずかることにどのような意味があるのかを、マタイによる福音書の聖書箇所から、共に考えてみたいと思います。
●3月27日 週報巻頭言 牧師 木村 一充