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先週礼拝後に行われた9月度の役員会で、来月(10月)より、これまで開催を見合わせていた水曜日午前10時半からの祈祷会をZoomで開催することが提案され、承認されました。コロナの感染防止対策として、ひとつの部屋に多くの人が集うかたちを避け、遠距離通信アプリであるZoomを使用することで、ご自宅からパソコンの画面を通して祈祷会に参加することができます。祈祷会の式順は、開会賛美、祈り、牧師によるみ言葉の説き明かし、分かち合い、分散での祈り、報告、閉会となります。
今月第1週の主日礼拝で、「執拗な祈り」と題してルカ福音書から説教を語りましたが、何人かの方から、「わたしも祈りを大切にしたいと思った」という応答を頂きました。水曜夜の祈祷会は、現在対面形式で行っておりますが、午前の方は当分の間Zoomで行うことにします。
祈りは、神さまとの対話であり、また自分の力では解決できない問題を神さまの前に打ち明け、問題の解決を求める「願い求め」でもあります。コロナ・ウィルスの蔓延による感染リスクを回避するために、オンラインで祈祷会を行うことは教会にとって新しい試みとなります。どうぞふるってご参加ください。なお、当日は木村牧師のパソコンから招待しますので、参加希望者は牧師あてご自分のメールアドレスをお知らせください。共に祈ることを通して、新たな祈りの輪が広がることを期待しています。
●9月19日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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ヨハネによる福音書2章には、主イエスが、公生涯の最初の働きとして、ガリラヤのカナで行われた結婚式に弟子たちと出席し、そこで、水瓶の水をぶどう酒に変えるという奇跡(最初のしるし)を行ったことが記されています。9月は、イスラエルではぶどうの収穫の季節に当たります。このときのぶどう酒がどれほど美味しいものだったのか、私どもには聖書本文によるしかありません。しかし、このときの奇跡を一番喜んだのは、式を挙げた二人でもなければ、婚礼の参列者たち、あるいは宴会の世話役でもありません。間違いなく、この奇跡を一番喜んだのは、主イエスの言葉に従い、水を汲んできた「しもべたち」です。主イエスは、その彼らの働きに目を注がれています。同じように、神さまは私たちの目立たない奉仕、裏方としての地道な働きをしっかりと見ておられます。そして、そのような奉仕を励む者に、大きな祝福を与えて下さるのです。
コロナ感染防止のために、もう1年半以上の礼拝自粛の期間が続いています。しかし、そのような中でも私たちにできる奉仕はあります。長期欠席者や療養中の方にお手紙やお電話を差し上げ、近況を分かちあうのも良いでしょう。また、それらの方を覚えて、牧師とともに祈るという働きもあります。礼拝には出席できなくても、神さまが喜ばれる奉仕を見つけ、教会の働きを支える「しもべたち」になりましょう。
●9月12日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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P.T.フォーサイスという英国の神学者が著した、「祈りの精神」という本があります。「最大の罪は祈らないことである」という冒頭の言葉で有名なこの本は、わたし自身が祈りについて思いめぐらすとき、必ず書架から取り出し、その言葉によって励まされ、力を受ける書物です。
フォーサイスは次のように言います。「この世に生活していくために、人は労働をしなければならない。同様に、魂を養うために人は祈りに労苦しなければならない。それは何と崇高な労働であろうか。『主イエス、悲しみ迫りて祈りたまえり。』必要であれば、血涙してでも祈らなければならない。神と力を合わせることは神を受け入れることである。その受け入れは、積極的、労働的である。・・・祈りは単なる願いではなく、意志を携えて神に求めることであり、意志がこもるのである。行動的に神を知り、出会うことなくして本当に祈ることはできない。」
神と出会うことなくして祈ることはできない、というフォーサイスの言葉は、まさにその通りです。その時の気分で、祈ったり祈らなかったりするのではありません。また、困ったときだけ祈るのでもありません。祈りを通して信仰を整え、それによって生活を整えるのです。祈りは神と出会う場であり、私たちの霊性を高めるための大切な奉仕です。祈りを生活の中に取り入れましょう。
●9月5日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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創世記の32章には、父イサクを欺き、兄エサウから祝福を奪い取ったヤコブが、母の里であるパダン・アラムに逃亡し、そこで叔父ラバンのもとで14年間働いた後に、家族と多くの家畜を得て、カナンの地に帰って来たときのことが描かれています。カナンの地に帰還するに当たり、ヤコブがどうしても果たさねばならなかったことは、兄エサウとの和解でした。
ヤコブは、この夜ヤボク川のたもとにたどり着きます。この川はヨルダン川の支流で、ヨルダン川を越えると、そこはカナンの地です。ヤコブは、家族と家畜をすべて向こう岸に渡らせたのちに、ただ一人後に残りました。兄と再会する前に、かつて自分が犯した罪(兄を欺き、祝福を奪い取ったこと)を主なる神の前で悔い改めるためであったと思われます。
しかし、このときヤコブが行ったことは「何者かと夜明けまで組み打ちする」ということでした。自分自身の罪深さは百も承知していながら、素直になれない。あの「祝福」を、天使と格闘するようなしかたで、再び神から求めずにはいられない。それが、ヤコブの正直な姿でした。このヤコブの姿は、イスラエル民族の歴史をそのまま物語っています。この格闘でヤコブは神に勝ち切ることができず、神に股関節を外され、足を引きずりながら兄と再会します。兄エサウとの和解は、その「痛み」のなかで実現するのです。
●8月29日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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旧約聖書の詩編119篇71節に、心に刻むべき次のようなみ言葉があります。
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによって、わたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(口語訳聖書)
私たちの人生には、時として、思いがけない試練や困難が襲いかかって来るものです。病気や事故、仕事や人生計画の挫折、大切な人との別れなど、極端に申せば、私たちの人生は試練の連続ではないでしょうか。
しかし、詩編の作者は、そのような苦しみにあったときそれを「良いことです」と言い切ります。なぜそう言えるのでしょうか。それは、私たちが苦しみを経験することで、自らの力に限界があることを悟り、自らの弱さを通して働かれる神の恵みを知るためです。さらに、信仰によって、人は試練を通して自らが謙虚になることを学び、その中で試練を乗り越える知恵や勇気を与えられます。そうして、その試練がその人の成長のための「肥やし」になるのです。
いま、新型コロナウイルス感染症の拡大によって、世界中のひとびとが苦難と動揺の中にあります。しかし、このことを通して神さまは私たちに何かを伝えようとされているのではないでしょうか。混乱のなかにあって、神が示される御心を謙虚に学ぶ強(したた)かな信仰を養いたいと思います。
●8月22日 週報巻頭言 牧師 木村 一充