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エレミヤが預言者として活動を始めたのは、紀元前627年のことです。その預言活動は、紀元前585年まで40年以上という長期に及びます。召命を受けた時、まだ若年であったエレミヤは、神によって「諸国民の預言者」としての任務を与えられました。この称号は、決して誇張ではありませんでした。当時の西南アジア世界は、大きな歴史の転換期を迎えていたからです。それは、オリエントの大国であったアッシリアが新興国のバビロニアに取って代わられ、諸国の勢力地図が塗り替えられようとしていた矢先のことでした。
エレミヤが見た幻の一つである「煮えたぎる鍋」は、北の方からエレミヤの方に向かって傾いていたといいます。それは、北からの外敵が、煮えたぎるような勢いでイスラエルに襲って来ることを示していました。事実、アッシリアを滅ぼしたバビロニア王ネブカドレツァルによって、紀元前605年にシリア、パレスチナ侵攻が始まります。嘆きの預言者と呼ばれるエレミヤは、危機の時代を生きた預言者でした。
●3月13日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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エルサレムへ上っていく途中のあるとき、主イエスはひそかに12人の弟子を呼び寄せて、自らの十字架の死を予告しました。「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。」それは、子ロバに乗ってエルサレムに入場するほんの少し前の出来事でした。
すると、この話を聞いたヤコブとヨハネの母親が、息子たちと一緒にイエスのところにやって来て、「(あなたが)王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と申し出たのです。イエスが打ち立てる神の国で、息子たちがナンバー2とナンバー3の職位に就くことを願ったのでした。
これを聞いたイエスは、言いました。「あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない。」これは、自らがもたらす神の国がどのようなものか、あなたがたには分かっていない、という意味です。神の国では、地上の王国のように他者を支配することではなく、主に従うこと、多くの人に仕えることが求められるのです。
●3月6日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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ヨハネによる福音書21章には、イエスの十字架の死の後、失望と悲嘆のうちにガリラヤに帰り、元の漁師としての生活に復帰した7人の弟子たちの前に、復活の主がご自身を現され、夜通し働いて空腹を覚えていた彼らに、パンと魚をもって朝食をふるまわれた出来事が記されています。
その食事の後で、イエスはシモン・ペトロに「ヨハネの子シモン、あなたは私を愛しているか」と、三度にわたって尋ねたと書かれています。「はい」と答えたペトロに対して、「私の羊を飼いなさい」と言われた、そんなやりとりが三度も続いたと記されているのです。
主イエスは、ペトロのご自身に対する愛が冷めてしまっているのではないかと、ペトロのことを疑われていたのでしょうか。そうではありません。むしろ、こう尋ねることによって、シモン・ペトロへのご自身の愛を、より確かなものにしようとされたのです。ドイツ語圏の注解書を読むと、このイエスの三度にわたる問いかけは、ペトロにとって「リハビリテーション」としての意味を持つものであったと解説されています。かつて大祭司の庭で、三度主を知らないと否んだペトロの行為と、心の傷を癒す言葉です。今朝は、この場面からみ言葉に聞きます。
●2月27日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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モーセは、赤子の時にエジプトの王女によってナイル川で拾われ、王女の子として育てられました。成人したある日、同胞のユダヤ人が奴隷としてエジプト人から暴力的扱いを受けている光景を見て、憤慨し、エジプト人を殺害してしまいます。その結果、彼は指名手配され、殺人犯として命を狙われる「お尋ね者」の身へと転落してしまうのです。
その後モーセは、ミディアンの地に逃れ、そこで祭司エトロの娘と結婚し、彼の羊の群れを飼う羊飼いとして、新たな生活を始めました。その生活が長くなったある時、モーセは羊の群れを追って、神の山ホレブに来ます。そこで燃え続ける柴の火を見つけ、神と出会う中で、「エジプトの地から奴隷の民として苦しむイスラエルの人々を連れ出せ!」という主の言葉を聴くのです。
本日の申命記34章は、その出エジプトの大事業をなし終えて、眼下に約束の地カナンを見ながら生涯を終えるモーセの姿が書き記されている箇所です。ここから、神の言葉を聴いていきます。
●2月20日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」(ペトロの手紙一 2章2節)ペトロは、そう言ってキリスト者の霊的な成長を促します。赤ちゃんがお乳を飲む技術は、相当なものです。どこで学んだわけでもないのに、巧みに口とその周りの筋肉を使って、上手にお母さんのお乳を飲むのです。
小原嘉明という人の著書『本能』(中公新書)に、「母乳を飲むために新生児は口を陰圧(内部の圧力が外部よりも小さくなる状態)にしたままで乳を吸わねばならないが、この陰圧を持続することは決して容易ではない。そのような複雑な行動を、新生児がそれを生まれた直後から実行しているのは、赤ん坊に備わっている本能によると言うしかない」と書かれています。
赤ちゃんが、もしもお乳を吸わなかったらどうなるでしょうか。結果は明らかです。赤ちゃんは成長できないばかりか、命を失ってしまいます。キリスト者もこれと同じです。神の言葉という霊的な食物をむさぼるように食べることで、わたしたちは成長するのです。霊の乳を慕い求める習慣を身につけ、心も体も健やかに保ちたいものです。
●2月13日 週報巻頭言 牧師 木村 一充