★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
私たちの教会では、今週の水曜日(10月6日)から、これまで定例集会であった午前10時半からの水曜祈祷会を、パソコンの遠距離通信アプリZoomを使って再開いたします。遅くとも前日までに、わたし(木村)の方から、希望者の皆さまの事前にうかがったメールアドレス宛てに、URLをお送りします。そこをクリックして、Zoom画面にお入りください(URLとは、Webサイトやファイルなどのインターネット上での場所・情報を示すもので、インターネット上の「住所」と考えていただくと分かりやすいです)。
水曜祈祷会については、着任した8月より、夕べの祈祷会を対面形式で行ってきましたが、午前の祈祷会については、コロナ感染予防のため開催を見合わせておりました。しかし、9月の役員会をZoomでおこなった際に、「このやり方を祈祷会にも適用して、とにかく始めてみてはどうか」という提案があり、会員の皆さまに週報等で呼びかけたところ、何人かの方から「わたしも参加できます」というお返事がありました。それは大きな喜びです。
今、多くの教会で、会員が一ケ所に集う対面形式の祈祷会を中止にしています。しかし、祈りとみ言葉は、わたしたちの信仰を強め、豊かにするために、無くてはならないものです。祈りを通して信徒相互の交わりが深められ、神さまとの関係も整えられるのです。どうぞ、奮ってZoom祈祷会にご参加ください。
●10月3日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
旧約聖書のヨブ記が問題にしている主題は、「人間には、なぜ苦難が襲い来るのか」「そもそも、苦難の原因はどこにあるのか」という本質的な問題です。旧約聖書を生み出した民であるユダヤ人は、「苦しみ」は、本来その人が犯した罪に由来すると考えていました。そして、その罪によってもたらされる一番の苦しみが死であると考えていたのです。
このような考え方は、洋の東西を問わず、また民族に関係なく、広く浸透しているように思われます。わが国でも、仏教に由来するのでしょうか、病気や災難に直面したときに「罰(ばち)が当たったのだ」と考える人は少なくないようです。しかし、イエスという方は苦しみや生まれつきの障がいを、決してその人やその人の両親が犯した過去の罪や過ちのせいだとは考えませんでした。そうではなく、「神の御業がその人の上に現れるため」であると言われたのです。
苦難の原因を、その人の過去の罪に帰そうとする考え方からは、積極的な共生の姿勢は生まれません。冷たく人を断罪するまなざしと、それは他人事であって自分には関係ないことと受け流す冷淡な態度しか生まれてきません。しかし、苦難の中に神の御業を見ようとする人は、苦難を通して生きる意味や、苦難を克服して生きる意味について考えるようになります。聖書が、苦難の意味を説き明かしてくれる大切な指針の書になるのです。
●9月26日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
先週礼拝後に行われた9月度の役員会で、来月(10月)より、これまで開催を見合わせていた水曜日午前10時半からの祈祷会をZoomで開催することが提案され、承認されました。コロナの感染防止対策として、ひとつの部屋に多くの人が集うかたちを避け、遠距離通信アプリであるZoomを使用することで、ご自宅からパソコンの画面を通して祈祷会に参加することができます。祈祷会の式順は、開会賛美、祈り、牧師によるみ言葉の説き明かし、分かち合い、分散での祈り、報告、閉会となります。
今月第1週の主日礼拝で、「執拗な祈り」と題してルカ福音書から説教を語りましたが、何人かの方から、「わたしも祈りを大切にしたいと思った」という応答を頂きました。水曜夜の祈祷会は、現在対面形式で行っておりますが、午前の方は当分の間Zoomで行うことにします。
祈りは、神さまとの対話であり、また自分の力では解決できない問題を神さまの前に打ち明け、問題の解決を求める「願い求め」でもあります。コロナ・ウィルスの蔓延による感染リスクを回避するために、オンラインで祈祷会を行うことは教会にとって新しい試みとなります。どうぞふるってご参加ください。なお、当日は木村牧師のパソコンから招待しますので、参加希望者は牧師あてご自分のメールアドレスをお知らせください。共に祈ることを通して、新たな祈りの輪が広がることを期待しています。
●9月19日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
ヨハネによる福音書2章には、主イエスが、公生涯の最初の働きとして、ガリラヤのカナで行われた結婚式に弟子たちと出席し、そこで、水瓶の水をぶどう酒に変えるという奇跡(最初のしるし)を行ったことが記されています。9月は、イスラエルではぶどうの収穫の季節に当たります。このときのぶどう酒がどれほど美味しいものだったのか、私どもには聖書本文によるしかありません。しかし、このときの奇跡を一番喜んだのは、式を挙げた二人でもなければ、婚礼の参列者たち、あるいは宴会の世話役でもありません。間違いなく、この奇跡を一番喜んだのは、主イエスの言葉に従い、水を汲んできた「しもべたち」です。主イエスは、その彼らの働きに目を注がれています。同じように、神さまは私たちの目立たない奉仕、裏方としての地道な働きをしっかりと見ておられます。そして、そのような奉仕を励む者に、大きな祝福を与えて下さるのです。
コロナ感染防止のために、もう1年半以上の礼拝自粛の期間が続いています。しかし、そのような中でも私たちにできる奉仕はあります。長期欠席者や療養中の方にお手紙やお電話を差し上げ、近況を分かちあうのも良いでしょう。また、それらの方を覚えて、牧師とともに祈るという働きもあります。礼拝には出席できなくても、神さまが喜ばれる奉仕を見つけ、教会の働きを支える「しもべたち」になりましょう。
●9月12日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
P.T.フォーサイスという英国の神学者が著した、「祈りの精神」という本があります。「最大の罪は祈らないことである」という冒頭の言葉で有名なこの本は、わたし自身が祈りについて思いめぐらすとき、必ず書架から取り出し、その言葉によって励まされ、力を受ける書物です。
フォーサイスは次のように言います。「この世に生活していくために、人は労働をしなければならない。同様に、魂を養うために人は祈りに労苦しなければならない。それは何と崇高な労働であろうか。『主イエス、悲しみ迫りて祈りたまえり。』必要であれば、血涙してでも祈らなければならない。神と力を合わせることは神を受け入れることである。その受け入れは、積極的、労働的である。・・・祈りは単なる願いではなく、意志を携えて神に求めることであり、意志がこもるのである。行動的に神を知り、出会うことなくして本当に祈ることはできない。」
神と出会うことなくして祈ることはできない、というフォーサイスの言葉は、まさにその通りです。その時の気分で、祈ったり祈らなかったりするのではありません。また、困ったときだけ祈るのでもありません。祈りを通して信仰を整え、それによって生活を整えるのです。祈りは神と出会う場であり、私たちの霊性を高めるための大切な奉仕です。祈りを生活の中に取り入れましょう。
●9月5日 週報巻頭言 牧師 木村 一充