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福音書の記者ルカは、イエスの誕生物語の中で、イエスが飼い葉桶に寝かされていたということを二度も語っています(ルカ福音書2章7節、12節)。それは、このことがルカにとって重要だったことを表しています。
イエスが寝かされたのは、おそらく石で作られた飼い葉桶だったのではないでしょうか。ベツレヘムには、岩の洞穴の上に立てられた小屋があちこちにありました。その洞穴が家畜小屋として利用されました。「宿屋」と訳されるギリシャ語(カタルーマ)は、元来「洞窟の上の部屋」を意味しています。生まれたばかりの赤子が石の飼い葉桶に寝かされるとは、なんとわびしいことでしょうか。
イエスは、家畜の餌が入れられた飼い葉桶に寝かされました。人々が受け入れなかったために、動物たちが餌を得るところに置かれたのです。しかし、動物たちは彼を取り除こうとはしませんでした。
飼い葉桶に眠る幼子を描くことによって、ルカは一つの神学的な主張をしています。それは、イエスの貧しさです。神は貧しさの中に来られました。飼い葉桶の赤子は、イエスがその誕生において、この世の貧しい者と連帯されていることを示しています。そのお姿は、十字架の死に至るまで変わることがありませんでした。
●12月12日 子どもクリスマス合同礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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先週の火曜日(11月30日)の夜10時より、クリスマス委員会(牧師、伝道委員、礼拝委員)のメンバーで、Zoomを使ってクリスマスに向けての打ち合わせをおこないました。その話し合いで、クリスマス礼拝の概要が明らかになりましたので、皆さまにお知らせいたします。
(1)12月12日(第3アドベント主日)の礼拝は、子どもたちとの合同礼拝にする。その日は牧師が大人向けのメッセージのほかに、子ども向けのメッセージも用意して、2回に分けて話をする。
(2)12月19日クリスマス礼拝では、奏楽奉仕者にクリスマスメドレーというかたちで、特別賛美をお願いする。愛餐会は無し。そのほかは、通常の礼拝と同じ形式とする。
(3)12月24日イブ礼拝(午後7:30〜)のプログラムの内容は、昨年とほぼ同じ。聖書朗読にクリスマス賛美歌を交互にはさみながら、説教につなげる。全体で45分程度の礼拝とする。燭火礼拝となるため、説教の時もできる限り講壇の照明は暗くする。
以上です。それぞれの礼拝が、神さまによって豊かに祝福され、御子イエスさまのご降誕を心からお祝いする喜びの礼拝となることを願っています。
●12月5日 第2アドベント礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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アドベントという言葉は、ラテン語の Adventus(到来、接近の意)から来た教会の暦上の用語で、日本語では「待降節」あるいは「降臨節」と訳されます。イエス・キリストのご誕生を待ち望む期間として、西方教会(ローマカトリックおよびプロテスタントの諸教会)で定められ、期間は、クリスマスの4週前の日曜日から、12月24日までとされています。
具体的に言うと、アドベントは11月30日に最も近い日曜日から始まります。最も早い年は11月27日から始まり(来年がそうなります)、もっとも遅い年では12月3日から始まります。その年の12月25日の該当曜日に影響を受けますから、アドベントの期間の日数は、最大で6日間の差が生じます。今年は、期間が長い方になります。
わたしたちの住む暗き世に、神さまは「闇を照らす光」としてイエス・キリストを送り込んでくださいました。それによって、平和が実現するため、またすべての人に生きる希望が与えられるためです。折しも、本日は世界バプテスト祈祷週間を覚えて、礼拝をささげる日曜日でもあります。イエス・キリストの光をすべての人に届けるための宣教師ご家族の働きを、支えていきましょう。
●11月28日 世界祈祷週間礼拝 牧師 木村 一充
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毎週の祈祷会では、現在、マルコによる福音書からみ言葉を学んでいます。先週は、マルコ3章7〜12節から神の言葉に聴きました。主イエスがユダヤの会堂での癒しのわざを終え、ガリラヤ湖に場所を移して宣教の働きを続けられた時のことです。
おびただしい群衆がイエスのあとに従って来たために、その群衆によって押しつぶされそうになり、イエスは小舟を用意してほしいと弟子たちに言いました。大勢の群衆に対応しきれなくなり、一時退避されたのです。
教会における伝道の働きは、牧師ひとりだけに託されたつとめではありません。そうではなく、一人一人がキリストの証人であり、福音の伝達者です。もしも牧師や役員が、宣教の困難や試練に遭い、それに押しつぶされそうになっている時は、教会全体でその働きを支えましょう。それは、牧会の働きについても同じです。牧会は、信徒の声を聴き、頑なになった心を柔らかにして、再び神に向けさせるとりなしのわざです。それは教会全体の働きだと、D.ボンヘッファーは『共に生きる生活』という本の中で書いています。そのような働きを、共に担い合う教会となりましょう。バプテストの教会の強さは、そこにあるのです。
●11月21日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」(マルコ福音書10:13) イエスの時代において、ユダヤ人の母親たちが、有名なラビやすぐれた律法の教師に自分の子どもを祝福してもらうということは、ごく自然な行為でありました。特に、子どもの最初の誕生日(1歳の誕生日)に、母親たちはそのような人たちのところに子どもを連れて行ったといいます。本日のマルコ福音書に記される出来事も、そのような事情で起きた出来事だったと思われます。
ところが、これを見た弟子たちは「この人々を叱った」というのです。なぜ弟子たちはそうしたのでしょうか。おそらくこの時、弟子たちの頭の中が、主イエスの受難と死のことでいっぱいだったからです。主イエスご自身から、二度にわたる受難の予告(マルコ福音書8:31、9:31)を聞かされていた彼らは、前途に悲劇が迫っている困難な状況の中で、主イエスがこれ以上ほかのことで煩わされることがないようにと配慮して、母親たちを叱ったのでしょう。
しかし、イエスはこれを見て憤り「子どもたちをわたしのところに来るままにしておきなさい」と言われます。子どもたちへの祝福は、福音の宣教と、切り離すことのできないものだったのです。
●11月14日 子ども祝福礼拝 牧師 木村 一充