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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-09-11 13:21:54 (431 ヒット)

礼拝説教「強くなりなさい」 エフェソの信徒への手紙 6:10-18
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
週報巻頭言「強くなりなさい」

 エフェソの信徒への手紙は、アジア州の首都として栄えた港町であるエフェソにある教会の信徒に向けて、獄中にあったパウロから書き送られた手紙です。エフェソには、アルテミスの女神を祀る神殿があり、異教が支配する町でした。
 このように、ギリシャ文化の強い影響を受けた町の教会ですから、信徒たちは異教の神々を信じる異邦人たちに取り囲まれており、さまざまな困難やこの世の誘惑に曝されました。文字どおり、信仰の戦いを戦わねばならなかったのです。それゆえ、エフェソ人への手紙は励ましと勧告の言葉で満ちています。
 本日の聖書箇所で、パウロは「悪魔の策略に対抗して、立つことができるように神の武具を身に着けなさい」との、勧めの言葉を語っています。このようなパウロの言葉は、時代や場所を超えて、いつ、どこにおいても当てはまります。私たちもまた、この世の諸々の力と戦いながら、信仰生活を送っているからです。サタンの誘惑は、常に私たちに襲いかかってきます。油断することなく、神の武具を身に着けて、信仰の戦いに勝利しましょう。

●9月11日 週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-09-04 13:19:30 (421 ヒット)

礼拝説教「わたしはぶどうの木」 ヨハネによる福音書 15:1-5
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週報巻頭言「私はぶどうの木」

 9月になりました。季節が変わり、秋の収穫の季節を迎えます。こちらにやって来て気が付いたのですが、松戸から白井、鎌ヶ谷にかけて梨農園があちこちにあり、今はちょうどその収穫の時期にあたっているようです。鳥取県の名産と言われる20世紀梨も、もともとは千葉県が発祥の地と聞いて驚きました。
 イスラエルにおける代表的な果物は、何と言ってもぶどうです。「乳と蜜の流れる地」と呼ばれたカナンですが、その「蜜」とは蜂蜜ではなく、ぶどうの蜜であったのではないかと見られています。9月下旬から10月の初めにかけて、収穫の時期を迎えると、ぶどうの芳醇な香りが、辺り一面に漂うのです。
 本日の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」は、ヨハネ福音書の中でも特に知られるイエス様のお言葉です。この言葉が、新約聖書の教会にとって、どれほど大きな意味を持つ言葉であったかを、この朝はともに分かち合いたいと思います。私たちもまた、信仰によって、固くキリストにつながり、大地にしっかりと根を張るものになりたいと思います。

●9月4日 週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-08-28 13:37:47 (421 ヒット)

礼拝説教「神の家に住む」 創世記 28:10-17
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週報巻頭言「ヤコブの夢」

 本日の聖書箇所、創世記28章では、ヤコブという双子の兄弟の弟が、約束の地を離れ、母の故郷であるハランに向かう途中で見た夢のことが記されています。その前の27章で、ヤコブは父親を欺き、本来長子である兄エサウが受け取るはずだった父イサクからの祝福を奪い取りました。それには、母リベカの入れ知恵があったことも無視できません。
 信仰の父祖と呼ばれるアブラハムの系譜は、決して、模範的で立派な信仰の持ち主によって信仰が受け継がれていたわけではありませんでした。むしろ、家族間の対立や長子の特権をめぐる争いが見られるなど、ごく普通の「罪人(つみびと)」が集う家族だったのです。
 本日の箇所で、ヤコブはベエル・シェバを離れ、ベテルという所に着きます。日が沈んだため、そこで石を枕にして横になり、一夜を過ごそうとしました。すると、彼は不思議な夢を見ました。先端が天にまで達する階段が地上に向かって伸びていて、そこを天のみ使いたちが上り下りしていたのです。その夢にはどのような意味があったのか。本日はこのヤコブの見た夢から、み言葉に聞きます。

●8月28日 週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-08-21 14:16:18 (470 ヒット)

礼拝説教「起き上がりなさい」 ヨハネによる福音書 5:1-9
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週報巻頭言「礼拝とは何か」

 先週の役員会で、礼拝の司式をめぐっての話し合いが持たれ、その議論の中でそもそも礼拝とは何なのかということが話題になりました。礼拝とは何かというテーマを学ぶには、越川弘英という人が翻訳した『礼拝とは何か』(J.E.バークハート;日本キリスト教団出版局)という本が優れており、その中に丁寧で分かりやすい解説が記されています。
 この本の冒頭で、バークハートは礼拝とは何かという問いを設定し、次のように述べます。「礼拝とは何か。それは、はるかな過去の時代から、『人間が神のしもべである』ことを示そうとする営みであった」と。つまり、礼拝を通して、「神こそが、われわれのまことの主である」とわれわれは告白し、宣言しているというのです。
 さらに、礼拝とは「神の恵み深さ」に対する人間の側の「祭儀的な応答」であるともいいます。「祭儀的」とは、祝祭にあずかるような高揚感のもと、儀式を用いて、厳粛かつ静粛に、神から注がれる愛と恵みを、溢れるほど受けるということです。礼拝を通して、わたしたちは活ける神と交わり、そこから命をいただくのです。

●8月21日 週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-08-14 16:08:18 (447 ヒット)

礼拝説教「来たれ、主の平和」 ミカ書 4:1-3
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週報巻頭言「平和祈念礼拝」

 8月に入り、今年も8・15を迎えます。77年前のこの日の正午、昭和天皇によって、日本が連合国側の提示した「ポツダム宣言」を受け入れ、無条件降伏することが、ラジオで全国放送されました。戦争が終わったのです。
 戦争の世紀と言われる20世紀が過ぎ去り、21世紀に入った今も戦争がおこなわれています。ロシアによるウクライナ侵攻が始まって約6か月になりますが、未だ停戦の見通しはついていません。新・旧約の聖書において「平和」は、その中心的なメッセージとして語り継がれました。旧約聖書には「平和」(シャーローム)という言葉が、全部で237回も使われています。まさに「最重要な言葉」の一つと言えましょう。
 ギリシャ人は、平和を戦争のない「時間」として捉えました。しかし、ユダヤ人は、平和とは神の義(ツェダカ)、または神の真実(エメト)が、社会に満ち満ちている状態を指すと考えました。つまり、平和を神と人間の「関係」において捉えたのです。平和は自然に与えられるものではなく「作り出す」ものだったのです。

●8月14日 平和祈念礼拝 週報巻頭言  牧師 木村 一充


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