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本日のマタイ福音書13章には、さまざまな主イエスの「神の国のたとえ」が記されています。たとえば、「からし種のたとえ」では、神の国の広がりのことが語られています。天国は初めはからし種のように小さいが、やがては成長し、そこに空の鳥が巣を作るほどの大きさになるというのです。思えば、イエスの弟子たちは、初めは12人しかいませんでした。しかし、その弟子たちの数が、何千人、何万人と増えていったのです。イエスのお言葉通りになりました。
本日の箇所では、畑に隠していた宝物の話と、高価な真珠のことが書かれています。そのいずれにも共通する主題(モチーフ)があります。それは、それらの宝物を見つけた人が、「持ちものをすっかり売り払って」その畑や真珠を買うという行動を取っていることです。それらの行動は、一体何を意味しているのでしょうか。本日は、マタイによる福音書から、主イエスが語られた神の国のたとえから響いてくる神の国のメッセージに耳を傾けたいと思います。天国とはどのようなところかをご一緒に想像しつつ、み言葉に聞いてゆきましょう。
●8月17日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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本日のマタイによる福音書5章1節以下は、いわゆる「山上の説教」としてよく知られている箇所で、ここでは主イエスの祝福の言葉(「幸いなるかな」)が、8通りの人々に向けて語られています。
本日の9節は、その一つである「平和を実現する人々」に対する祝福が語られているところです。それまでの6つは形容詞で示される人の性質(心の貧しい、柔和な、憐み深いなど)を備える人々への幸いが語られますが、7番目で初めて「平和を実現する(人々)」と、動詞で修飾される人々が登場します。そこには深い意味があります。すなわち、平和は静止しているものではなく、むしろ動的なものであり、それは争いの後にやってくるのではなく、逆にその前に来るもの、すなわち争いに先んずるものなのです。
教会は、「キリストによる平和」をこの世界に向かって宣べ伝えます。それはイエス・キリストの十字架の死によって実現した神と人との和解の出来事をこの世に伝える働きです。罪を赦し、敵を愛するという人間にはできない和解の業を神の子であるキリストだけが、なし得たのです。
●8月10日 平和祈念礼拝 週報巻頭言 牧師 木村一充
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本日の「エフェソの信徒への手紙」は使徒パウロがコリントの次に訪問したアジアの港町である「エフェソ」で立てた教会の信徒たちに向けて書き送った手紙です。エフェソは、アジア第一の都市として知られ、パウロの時代はエジプトやオリエント(東方)の穀物や商品をギリシャやローマに運ぶ貿易港として栄えました。さらに、エフェソには女神アルテミスを祀る神殿があり、世界中の人が神殿詣出のためにやってくるという、ギリシャ文化が色濃く漂う異邦人の町でありました。
パウロは、このようなエフェソの教会の信徒たちに本日の箇所でこう述べます。「だから、あなたがたは滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなさい」(4:22-23)。キリスト者とは、イエスキリストを信じる信仰によって罪が赦され、古き自分に死に、新たな命に生きるようにされた者です。本日は、そのキリスト者の新しい生き方について、エフェソの信徒への手紙を通して、神のみ言葉に聞きます。
●8月3日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」ペトロは、そのように小アジアの各地に離散して暮らすキリスト者たちに、勧告の言葉を語ります。彼らは、ローマ皇帝による迫害やユダヤ人による迫害に苦しんでいた人たちでした。そのような彼らを支えたのは、イエス・キリストと再び会うという希望でした。この終わりの日への希望によって彼らは、きびしい迫害の中でも希望を持って生きることができたのです。
本日の箇所で、ペトロは「あなたがた自身が聖なる祭司となり、神に喜ばれる霊的ないけにえをささげなさい」と述べます。祭司の仕事の第一は、礼拝をつかさどり、祈りとささげものをもって人々の罪の赦しを神に求める、いわゆる「とりなし」のわざを行うことです。そのためには、自らも神の前に身を律し、み言葉に親しみ、絶えず祈らなければなりません。
本日は、このような霊の人とも言える祭司となるための要件を考えながら、ささげることの意味を考えます。
●7月27日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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主イエスがあるところで祈っておられると、弟子の一人がその祈りが終わるのを待ちかねていたかのように、次のように求めました。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」
ヨハネとは、バプテスマのヨハネのことです。洗礼者ヨハネは、悔い改めと水による洗礼(バプテスマ)を民衆に説きましたが、そのために祈ることも弟子たちに教えていました。イエスは、ヨハネほど祈りの手ほどきをしなかったようです。
この弟子の求めに応えて教えられた祈りが「主の祈り」と呼ばれる祈りです。主の祈りは、神に向かって垂直方向に祈る祈りと、日常生活の中で起きる問題に対して自分と隣人のために祈る水平方向の祈りによって構成されています。この二つの祈りがあって祈りの生活は前進するのです。この二つのうち、どちらが欠けても不十分です。自転車が二つの車輪によって前に進むのと同じです。
しかし、なぜ信仰者に祈りが必要なのでしょうか。また、祈りとはいったい何なのでしょうか。本日はルカによる福音書11章から、この「祈り」という行為について思いを巡らせます。
●7月20日 週報巻頭言 牧師 木村一充


