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本日の礼拝は、平和祈念礼拝としてささげます。今年は、1945年に日本が太平洋戦争に敗れ、連合国の提示したポツダム宣言を受諾することを決定した日(8・15)から数えて79年目となります。80年近い年が経過する中で、戦争を体験した人の数も相当に少なくなってきました。そのような中で、本日の礼拝で学童疎開を経験された一人の姉妹の「証し」を聞きます。
本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙12章において、使徒パウロは「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」と言います。この言葉こそ、まさに聖書が示す平和の倫理を表した言葉です。「目には目を、歯には歯を」という同等報復を規定したハムラビ法典は、当時としてはお手本となった法律でした。しかし、パウロはこの「同等報復」を否定し、悪に対して善をもって応えなさいと説くのです。これは、多くの人にとって非常識な言葉であり「浮世離れ」しているとさえ見られる言葉です。しかし、キリスト者はこの言葉に基づき、「平和を作り出す者」として生きるのです。
●8月11日 平和祈念礼拝 週報巻頭言 牧師 木村一充
新しい月8月を迎え、今年もまた平和を祈念する月がやってきました。今年はあの1945年の8・15(敗戦記念日)の日から数えて79年目となりますが、終戦から約80年の年月を重ねることになります。戦争を体験された方々も高齢となり、「語り部」として、ご自身の経験したことを次世代に伝えることができる人も少なくなっています。過去の歴史から学ばなければ、人間は成長することができません。にもかかわらず、世界では今も悲惨な戦争がおこなわれています。一日も早く和平が実現することを、強く祈りたいと思います。
ナチスの迫害から逃れ、ドイツから米国に移住した物理学者A・アインシュタインは、原子爆弾が広島、長崎に投下されたことを深く悲しみました。あるとき、雑誌のインタビューで、「もし、第3次世界大戦が起きたら、世界はどうなると思うか」と聞かれ、こう答えたそうです。「第3次世界大戦のことはよく分からないが、第4次世界大戦のことなら分かる。その時に使用される武器は間違いなく石と棍棒だ」と。
現代の世界は、ふたたび「バベルの塔」を築こうとしているのでしょうか。平和への祈りは、人間の信仰・良心の働きと深く関わっています。
●8月4日 週報巻頭言 牧師 木村一充
本日のヨシュア記1章の前半で、主なる神はモーセの死後、後継者として選ばれたヨシュアに語りかけています。「強く雄々しくあれ」 幾度となく、主はヨシュアを励ましているのです。
モーセは偉大なる指導者でした。40年にも及んだ荒れ野での生活、その間には主が紅海を二つに分けて通り道を作った有名な出来事もあります。ヨシュアはそのモーセの従者でした。これだけの人物の後を継ぐとは、ヨシュアにはどれほどの圧(プレッシャー)があったことでしょう。今までは、先を歩いてくれるモーセが居ました。しかし、ここから先は自分が先頭に立たなければならないのです。
しかし、主なる神の御言葉(みことば)を受け、ヨシュアはヨルダン川を渡り、約束の地カナンに民を導くこととなります。
ヨシュアという名の持つ意味は「主は救い」、イエス・キリストの名の意味と同じです。モーセのバトンを受け継ぎ、ヨシュアは民を約束の地カナンに救い出しました。私たちを救い出してくださる方こそがイエス・キリストです。イエスの父は、ヨシュアを励ました主なる神であることに感謝しつつ、本日の箇所をともに読みましょう。
●7月28日 週報巻頭言 教会員 K.T.
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本日の箇所である詩編8編は、主日礼拝における交読文(交読文3)にも採用されているたいへんよく知られた詩です。この詩編は、創造者としての神の威光が、大空の月や星に顕著に表れていることを歌いつつ、同時に地上の小さく弱い存在である人間を通して、さらに強くご自身の力と知恵を表しておられることを、驚嘆の思いをもって表現している詩編です。
「御手によって造られたものをすべて治めるように/その足元に置かれました。」という7節の詩文に表されている内容は、地上において神の代行者とされた人間の持つ特権と、その責任の大きさを告白するものです。しかし、残念ながら、詩人はそのような重責を担うべき人間が、堕落してしまい、創造時の栄光を失ってしまっていることを認識しています。
だからこそ、神の恵みと力によって本来あるべき人間の本性が回復され、神への信仰を新たに持つことによって、その職務を正しく担うことができる者になるように、という願いが、この詩には込められているのです。本日は、この詩編8編から響いてくる神さまのメッセージに耳を傾けることにします。
●7月21日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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本日のルカによる福音書の7章では、イエスがあるファリサイ派の人から、食事に 招かれ家にいる時、一人の罪深い女がその家に入ってきたことが記されています。
彼女は、後ろからイエスの足元に近づくと、持っていた石膏の壺から香油をイエスの足に注ぎかけたというのです。このようなフォーマルな食事の席で、彼女のとった行動は、ほとんど非常識とも言うべき振舞いでした。
これを見たファリサイ派の一人が「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がどのような人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と言って、イエスを責めました。
しかし、この言葉を耳にしたイエスはあるたとえを語られます。ある金貸しが二人の男に、それぞれ500デナリ、50デナリを 貸した。ところが、二人とも金が返せなくなったため金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。この二人のうち、どちらがより多く、この金貸しを愛するだろうかと。当然ながら、ファリサイ派の男は「500デナリ」を借りた方だと答えました。イエスはその通りだと言われます。このたとえで主は何を語ろうとされているのか。本日はこのことを共に考えます。
●7月14日 週報巻頭言 牧師 木村 一充