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マルコによる福音書2章には、ガリラヤ湖の近くで、イエスがアルファイの子レビという名の徴税人と出会い、「わたしに従ってきなさい」と呼びかけ、弟子とされた出来事が書かれています。このレビは、並行記事であるマタイ福音書9章では、マタイと呼ばれています。主イエスの弟子の中には、当時のユダヤの敵国であったローマに雇われて、税金徴収を請け負う仕事をしていた人がいたということです。
当時の徴税人は、同胞のユダヤ人から通行税や商取引にかかわる税金を取りたてました。地区ごとに徴税のノルマが定められ、それを納めればあとはそれ以上いくら取り立てても、原則としてお咎めなしだったといいます。ただ、法外な取り立てをした場合は、訴えられ、ローマ法による裁判にかけられました。
売国奴ともみなされていた徴税人や 罪人たちと一緒に、イエスは食事をしたと本日の箇所に書かれています。神の国の饗宴ともいえる食事を囲む食卓に、罪人たちが与っていたのです。本日は、この聖書の箇所からイエスのメッセージを聞いてゆきます。
●10月16日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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出エジプト記は、イスラエルの民がモーセに率いられ、奴隷の地であったエジプトから脱出した出来事が書き記された書物です。その道中で、彼らがシナイ山に着いたとき、主なる神から声があり、山に登ったモーセに、十戒を記した2枚の石の板が与えられます。いわゆる「シナイ契約」によって、イスラエルに律法が与えられることになるのです。
このように、出エジプトはイスラエルの新しい歴史を切り開く出来事でした。約束の地カナンを目指す荒野の旅は決してたやすいものではありませんでした。しかし、この出エジプトによって、イスラエルは、いわば民族の解放を勝ち取ったのです。
本日の3章は、そのモーセが、ミディアンの地で羊飼いをしていたとき、神の山ホレブで柴の間に上がる炎を見かける場面です。そこは、活ける神が臨在される場所でした。「あなたの履物を脱ぎなさい」この主の言葉に従って、神を礼拝したモーセに、主なる神は出エジプトの大事業をお命じになったのです。
本日は、このモーセの召命の物語を通して、神の言葉に耳を傾けます。
●10月9日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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例年、プロ野球のシーズンが終わり、ストーブリーグと呼ばれる季節を迎えると、必ず話題に上るのが、翌年の契約更改のことです。選手の来季の契約がどうなったか、サインしたかしなかったか、そのような話がスポーツニュース等で取り上げられます。
もう、ずいぶん昔になりましたが大洋ホエールズという球団に高木豊という選手がおりました。ある年の秋、彼は球団との交渉の席で、「来季は契約しない」と宣告されます。要するに「戦力外通告」を受けたのです。その結果を奥さんに伝えるという場面を、私はたまたま、テレビのニュース番組で見ました。
その年の働きぶり、加齢によるパフォーマンスの低下を傍らで見ていた奥さんは、豊氏の話を黙って聞いた後、「長い間お疲れ様でした。これからは、第2の人生のことを考えましょう。」と豊氏に声をかけたのです。金の切れ目が縁の切れ目、というのではない、清々しい生き方、共に苦労を引き受けて行くという伴侶の姿がそこにはありました。神さまの愛もこれに似ています。ローマの信徒への手紙から、その神の愛について学びます。
●10月2日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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『サザエさん』等の作品で知られる漫画家の長谷川町子さんの母、貞子さんは、聖公会のクリスチャンだったことが知られています。ご主人を若いうちになくし、女手ひとつで3人の娘たちを育て、一家を切り盛りした「やり手」でした。戦後、福岡から上京した貞子さんは、世田谷に居を構え、町子さんの漫画を出版する会社「姉妹社」を設立します。その資金を工面するため、自らの実家を売却したと言います。
『サザエさん』の原稿を、締切に間に合わせようと始終四苦八苦していた町子さんが、一日の仕事を終えて食卓に着こうとすると、母親の貞子さんから、決まって「思い煩うなかれ」という聖書の言葉を聞かされたそうです。そのみ言葉によって、慰めや励ましを得て、町子さんは、あの国民的人気漫画『サザエさん』を描き続けることができたのでした。
あの「サザエさん」の底抜けの明るさ、屈託のない性格は、母親の貞子さんが見本だったのでしょうか。日曜の夕方の時間に流れて来る『サザエさん』の主題歌を思い起こしながら、昭和の懐かしき時代を回顧するのです。
●9月25日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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国民の祝日である「敬老の日」を迎える9月のこの週に、聖書の中で「長寿」や「死」の問題がどのように扱われているかを探ることは、意義深いことだと思われます。
第一の興味深い事実は、聖書では信仰の父祖たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)や王、さらには預言者に至るまで、その死に際して、彼らが立派な葬儀をもって送られたという記録が全くと言えるほどないということです。イスラエルに最盛期をもたらしたあのダビデ王でさえ、その死に関しては「彼は高齢に達し、富と栄光に恵まれた人生に満足して死に、彼に代わって息子のソロモンが王となった」(歴代誌上29:28)と、短く紹介されるだけです。
第二は、聖書はおよそ人間の「死」をめぐって詳しい描写を通してその「死に様」を説明しようとしないことです。いかに死んだかが詳しく記述されるのは、ナザレのイエスただ一人と言ってよいくらいです。このことから、聖書の関心事は死よりも「生」にあると言えるでしょう。人の命は、地上においても天においても神と共にあるという理解が、背後にあったわけです。
●9月18日 週報巻頭言 牧師 木村 一充