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旧約聖書の「ルツ記」に記される出来事が起こったのは、士師の時代です。ユダのベツレヘム出身者であるエリメレクは、飢饉を避けるため妻ナオミと二人の息子を伴って、モアブの地に移り住みました。モアブとは、死海の東南部に広がる地域です。その後、エリメレクは妻ナオミを残して死んでしまいます。さらに、二人の息子たちも、それぞれの妻オルパとルツをめとりますが、二人とも妻を残したまま死んでしまうのです。
そこで、ナオミは夫の故郷ユダに帰ることを決意し、息子たちの寡婦となった二人の嫁に対し、それぞれの故郷に帰るようすすめました。オルパは、自分の故郷に帰りますが、ルツだけはナオミのそばにいることを望みます。こうして二人は、エリメレクの故郷、ベツレヘムに帰郷するのです。
この物語のポイントは、異邦人であり かつ寡婦という弱い立場の女性ルツが、ユダヤの律法に従い、ユダヤ人の子孫を残したというところにあります。しかも、そのルツの子孫から、ダビデ王とイエス・キリストが出ることになるのです。
●11月20日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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新約聖書のマルコによる福音書によると、イエスに触れていただくために人々が子どもたちを連れて来た時、「弟子たちはその人たちを叱った」とあります(10章13節)。イエスの時代において、有名なラビや律法学者に、自分たちの子どもを祝福してもらうということが、ごく自然におこなわれていました。それゆえ、高名なラビとして知られていたイエスのもとに、人々が祝福を求め、子どもを連れてやってきたのです。
ところが、これを見た弟子たちはこの人たちを叱りました。おそらく、弟子たちは自分たちの主であるイエスが、エルサレムに向かう途上で、大変困難な状況の中にあったことが分かっていて、主がこれ以上ほかのことで煩わされることがないようにと配慮して、保護者たちを叱ったのでしょう。
しかし、イエスはこれを見て憤り、「子どもをわたしのところに来るままにしておきなさい」と言われます。子どもたちへの祝福は、神の国と関係のない事柄ではなかったのです。小さき者への祝福と福音の広がりとは、切り離すことのできないものでした。
●11月13日 子ども祝福礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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本日の礼拝は、先に天に召された方々のことを覚え、在りし時をしのびつつ、天上での永遠の平安を祈る「召天者記念礼拝」です。身近な人の死を経験することで、人間はいつか死ぬという厳粛な事実を目の当たりにするのはいつの世も同じです。しかし、イエス・キリストを主と信じる者は、死は人生の終わりではなく、新たな生の始まりであり、永遠の故郷である天国への旅立ちであることを信じます。それゆえ、人の死をあるがままに見つめ、悲しみの中にも安らぎを覚えるのです。
聖書の信仰によれば、死とは人間の魂が神のみもとに帰り、永遠のいのちに与かることであると信じます。それゆえ、死者の魂が永遠に安らかに憩うように祈りをささげることがおこなわれました。死者のために祈ることによって、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成しをしてくださることを信じるがゆえに、教会はキリスト教の初期時代から、死者を記念することを深い敬愛の心をもって尊び、死者のための礼拝や祈りをささげてきました。召天者を記念することは、先に召された人々を追憶し、それらの人々との交わりに与かることでもあります。
●11月 6日 召天者記念礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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本日の聖書箇所であるマタイ福音書25章には「十人のおとめのたとえ」として知られる主イエスの終末への備えや心構えを説く有名なたとえ話が記されています。ここには、当時のパレスチナでおこなわれていた結婚式の慣例に従い、花婿を出迎える役割を担うおとめたち10人が登場します。ところが、その日の夜、花婿が帰って来るのが大幅に遅れてしまったため、そのうちの5人の愚かなおとめたちは、花婿を待っている間に眠り込んでしまい、ともし火をともす油を切らしてしまったというのです。
いっぽう、残りの5人の賢いおとめたちは、油の用意があったため、花婿を出迎え、彼と一緒にスムーズに婚宴の席に入ることができたのでした。
このたとえ話で、イエスは何を語ろうとされたのでしょうか。「花婿」とは誰のことか、また「油」とは何を意味しているのか、そのことを思い巡らしながら、本日の聖書箇所から響いてくる主イエスのメッセージを聞いてゆきます。
召天者を記念する礼拝を来週に控えていますが、その意味でも本日のたとえ話は、興味深く読むことができることでしょう。
●10月30日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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この朝与えられた聖書である詩編23編は、詩編のみならず、旧約聖書の中でももっともよく知られている詩編ではないかと思います。文語訳では「主はわが牧者なり。我乏しきことあらじ。主は我を緑の野に伏させ、憩いの汀(みぎわ)にともない給う」というような訳文で、多くの人に暗唱されてきました。この詩編で、詩人はイスラエルの神(ヤハウェ)が羊飼いとなって、羊のように弱いわたしたちを養い守り、導いて下さると告白するのです。
羊は視力が弱く、仮に10メートルほど先に野獣がいたとしても、それを判別することができません。平地が少ないパレスチナで、水を求めて谷川に降りる途中、がけや穴に落ちて死んでしまうこともありました。どこに緑の草があるのかも知りません。要するに、羊飼いがいなければ、まともに生きてゆくことができないほど、弱い動物だったのです。しかし、神さまがわたしの羊飼いとなってくださるから、わたしには何も欠けることがないと、詩人は言います。この詩人のように、主がわたしの羊飼いだから、私たちは平安でいることができるという信仰を強く持ちたいと思います。
●10月23日 週報巻頭言 牧師 木村 一充