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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-04-17 15:39:48 (425 ヒット)

礼拝説教「復活祭の朝」 マタイによる福音書 28:1-10
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
週報巻頭言「復活祭の朝」

 イエスが十字架上で息を引き取ったのは、金曜日の午後3時過ぎのことでした。遺体は、その日の内にローマの兵士たちによって下ろされ、引き取りを申し出たアリマタヤのヨセフによって、彼の園に移送されました。ヨセフは、主の遺体を亜麻布にくるみ、掘ったばかりの新しい墓に納めました。イエスの母マリアと、マグダラのマリアがそこに一緒に同行して、イエスの遺体が納められた場所を見届けました。
 翌日はユダヤの安息日(土曜日)であったため、律法の規定により、遠方への外出はできませんでした。そこで彼女たちは、安息日が明けた翌々日(日曜日)の朝早くに、墓に向かって出かけました。イエスの葬りが簡易的にしかなされていなかったので、遺体に油を塗って改めて丁重に葬るために、香油や包帯を買いそろえて、そこに向かったのです。
 彼女たちが目的を果たすためには、墓の入り口を塞いでいるあの大きな石を転がして、墓を開封することが必要でした。しかし彼女たちの力では、とてもできそうにないことだったので、彼女たちにとってそのことは、一番の心配事だったと思われます。ところが、墓に着いた時、驚くべきことが起こったのです。

●4月17日 イースター礼拝 週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-04-10 16:08:43 (405 ヒット)

礼拝説教「悲しみの道」 ルカによる福音書 23:26-31
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
週報巻頭言「悲しみの道」

 本日の聖書箇所には、イエスが十字架を負わされ、茨の冠をかぶってカルバリの丘への道を歩んでゆく途中で起きた出来事が、書き記されています。
 その当時ローマの兵士たちが駐屯していた「アントニオ要塞」から、イエスが息を引き取った場所とされる「聖墳墓教会」までのおよそ500メートルの道を、ラテン語で「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」と呼びます。この道は、印象的な聖書の記述ゆえに、今は観光名所となっています。
 本日より受難週が始まりますが、エルサレムはちょうど今ごろ、世界中からの観光客と巡礼者たちが訪れて、さぞかし賑わっていることでしょう。
 イエスが負っていた十字架を思いがけず負わされる羽目になったキレネ人シモンという人物が、この聖書箇所に登場する第一の人物です。第二に、嘆き悲しむ婦人たちが登場します。これらの人々は、イエスの十字架を理解する上で、重要な意味を持つ人物として描かれています。主の十字架への道に同伴したこれらの人々の心の中を想像しながら、本日の箇所を読みます。

●4月10日 受難週 週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-04-03 17:09:29 (487 ヒット)

礼拝説教「ゲッセマネの祈り」 マルコによる福音書 14:32-42
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
週報巻頭言「新年度始まる」

 4月になりました。今週から教会の新年度がスタートします。まずは本日の礼拝の中で、教会学校奉仕者任命式をおこないます。いまだにコロナ感染症の勢いが収まらないため、なお暫くの間はCS分級を再開することはできませんが、各クラスのリーダーと書記を選任して、コロナが収束するのを見届け次第速やかに分級再開ができる体制を整えます。
 また、今年度より毎月、第1週の主日礼拝の中で、牧師からの「招き」の時間を設けます。説教後の祈りの後、牧師から信仰の決心を促す「招きの言葉」が発せられます。新たに信仰の決意をされる方、他教会から当教会に転籍する決意をされた方は、牧師がお招きしますので、その招きに応えるかたちで、応答の賛美歌が歌われている間に会堂の前の方(牧師の立っている所)まで進み出てください。その進み出は、一つの大きな意思表示となりますので、慌てる必要はありません。十分に時間をかけて、「神が示されるその時」を祈りつつ求めてください。決心される方の上に、神さまの恵みと祝福が豊かにありますように、心からお祈りしております。

●4月3日 週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-03-27 15:50:46 (430 ヒット)

礼拝説教「主の晩餐への招き」 マタイによる福音書 26:26-30
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週報巻頭言「主の晩餐式を考える」

 主の晩餐式は、洗礼(バプテスマ)と並んでプロテスタントの教会で執行される、二つの礼典の中の一つであります。カトリック教会では礼拝の中心に置かれ、「聖体拝領」と呼ばれる秘跡(サクラメント)として位置付けられています。
 しかし、プロテスタントの教会は主の晩餐式を「礼典」と呼び、「サクラメント」とは呼びません。これは、「神による救済は人間のおこないによるのではなく、信仰のみによる」という使徒パウロの教え(ローマの信徒への手紙、ほか)から、晩餐式の執行そのものを救いの条件とは考えていないからです。
 ただ、私たちにとって主の晩餐式が、洗礼と並んで目に見える救いのしるしであることは否定できません。特に晩餐式は洗礼式と異なり、教会員全体がこれに参与し、パンとぶどう酒を「分かち合う」出来事であるとともに、これを繰り返しおこなうことで主の十字架と復活を想起する記念の出来事でもあります。この主の晩餐式にあずかることにどのような意味があるのかを、マタイによる福音書の聖書箇所から、共に考えてみたいと思います。

●3月27日 週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-03-20 16:36:49 (420 ヒット)

礼拝説教「重荷を負い合う」 ガラテヤの信徒への手紙 6:1-5
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週報巻頭言「祈祷会の学びより」

 先週の祈祷会では、マルコによる福音書6章30節以下の「5千人に食べ物を与える」の箇所からみ言葉を学びました。この5千人の給食の物語は、4つの福音書のすべてに書き記されています。それほど重要な意味を持つ出来事として、福音書記者たちに覚えられていたのです。
 この物語をどう理解するか、いくつかの解釈法があります。一つは、この物語にある出来事すべてが、実際に起きたことだと考える解釈です。食事が十分に準備された事情があったと見る解釈、すなわち、少年が手持ちのパンと2匹の魚を差し出したのを見て、多くの群衆が心動かされ、皆が手持ちの食事を差し出した結果、5千人が食べて満腹になるほどの分量となったと考える解釈です。
 しかし、最も説得力のある解釈は、この物語は主の晩餐式を先取りした出来事であったと考えるものです。手元にある僅かな量のパンと魚。それを取ったイエスは天を仰ぎ、賛美の祈りを捧げて、これを弟子たちに配らせました。その恵みにあずかった群衆は、喜びに溢れ、感謝をもってそれを食べ、そして満たされたのです。主の晩餐式は、そのような神の愛と祝福の業だということが、ここで言われていると考えるのです。

●3月20日 週報巻頭言  牧師 木村 一充


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