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コリントの信徒への手紙一13章には、新約聖書の中でも最もよく知られる「愛の賛歌」と呼ばれる美しい詩文が書き記されています。「愛は寛容であり、愛は情け深い…(口語訳)」この文章から始まる一連の賛歌は、教会の結婚式のなかで司式者によって必ずと言ってよいほど朗読されるみ言葉です。
しかし、この美しい詩文が書き送られた宛先であるコリント教会は、多くの問題を抱え、混乱を極めていました。具体的には、「わたしはパウロにつく」「わたしはケファ(ペトロ)につく」という具合に、自分たちが指示するリーダーをめぐって分争(スキスマ)が生じていたのです。そればかりか、教会の中では自分たちに与えられた霊の賜物(カリスマ)に関して、賜物の優劣を競い合い、一部の高ぶる者たちが、自分に与えられた賜物を特別に誇るということをしました。まさに、目が手に向かって「お前はいらない」と言うような事態になっていたのです。
パウロは、そのようなコリント教会の信徒たちに「最高の道」について説き明かします。それが愛(アガぺ)でした。その愛とはどういうものか、み言葉から聞きます。
●5月22日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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旧約聖書の創世記第7章には、「ノアの方舟(はこぶね)」としてよく知られている物語が書き記されています。地上には悪がはびこり、主なる神が創造された美しい自然や、世界の秩序が破壊されていました。6章5節以下に、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」とあります。それゆえ、ご自身が造られた人間たちを、地上から拭い去ることを決心されたというのです。
しかし、そのような神のみ心に背くことなく、忠実に神の言葉に従ったノアの 家族だけは、神の前に憐れみと好意を得た、と聖書は言います。主なる神は、やがて起こされる洪水の難を逃れさせるために、「あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい」(6章14節)と命じ、ノアとその家族の命を救うのです。
この方舟は、現代の教会であると言えるのではないでしょうか。教会は、現代社会の荒波の中で、激しく揺れ動く舟のようなものです。しかし、神の約束を信じて従う者に、神は新たなる人生と新たなる歩みを用意してくださいます。そのノアの信仰について、本日の聖書箇所より学びます。
●5月15日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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新約聖書の中心的な教えは「隣人愛」である、と言われています。その背景には、旧約聖書の律法(トーラー)のひとつである、レビ記19章18節の戒めがあります。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
この箇所は、ヘブル語では「隣人に対して愛しなさい」という表現になっています(目的格ではなく与格、第4格ではなく第3格)。それは、元々は「隣人に対して、友好的な態度で接する、友好的にふるまう」というくらいの意味であったと考えられます。
ユダヤ人は、このレビ記19章の戒めを解釈するに当たって、「隣人」とは誰なのか、異邦人や罪人は愛すべき対象である「隣人」に該当するのか、ということを真剣に議論しました。しかし、イエスはこのような捉え方を退けて、「人が主体的に助けを必要としている人の隣人となること」の大切さを説きました。その延長線上に、本日の聖書箇所、マタイによる福音書5章の言葉があります。
おそらく、イエスご自身の言葉とみられる「汝の敵を愛せよ」というみ言葉から、聖書に聞きたいと思います。
●5月 8日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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ローマの信徒への手紙7章7節以下には、かつて罪と死の律法のもとにあった「わたし」がいかに悲惨であったかが、モノローグ(独白)の形式で表現されています。この「わたし」はいったい誰なのか。宗教改革者ルターは、回心してキリスト教徒となったパウロを指していると解釈し、それ以来、これが有力な見解として多くの人に支持されてきました。
若き頃、ファリサイ派のユダヤ人としてエルサレムに上京し、律法を深く学び、熱心さの点では誰にも引けを取らないと自負していたパウロ(フィリピの信徒への手紙3章6節参照)が、イエス・キリストとの出会いを通して信仰的な転向を経験させられて、「わたしは、律法に対して死んだ」と告白するまでになったのです。
なぜパウロは、それまでの信仰理解、すなわち「人は律法のおこないによって救われる」という考え方(行為義認論)から、「人は、ただ信仰によってのみ救われる」(信仰義認論)という考え方へ方向転換したのか。その間の消息を、本日はローマの信徒への手紙7章25節に登場する「カリス」という言葉(恩寵、または感謝と訳されるギリシャ語)の意味を考えることを通して、分かち合ってみたいと思います。
●5月 1日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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イエス・キリストの復活の出来事を体験した弟子たちが、その後どのようにして信仰的に立ち直り、また、どのようなかたちでエルサレムに再び集結して最初の教会を立てたのか、歴史的な意味における「事実」について、残念ながら新約聖書には詳しく記されていません。
ヨハネによる福音書21章に、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」という言葉があります。復活のイエスは、何度も弟子たちの前にご自身を現された、あるいは、現れなければならかった。そうしなければ弟子たちには、イエスが復活したことがリアルに感じられなかった、イエスの復活が分からなかった、ということではないでしょうか。
本日の聖書箇所には、失意のうちにガリラヤに帰り、元の職業であった漁師の仕事を再開しようとした7人の弟子たち、とりわけシモン・ペトロの前に、イエスがご自身を現した出来事が書かれています。ペトロと復活のイエスとの再会のシーンを描くこの記事は、復活を描いた数ある記事の中でも、最も印象的なものであると言って良いように思われます。本日はこの場面から、復活の主に出会うとはどういうことかを、ご一緒に読んでみたいと思います。
●4月24日 週報巻頭言 牧師 木村 一充