★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
アドベントという言葉は、ラテン語のAdventus(「到来、接近」の意)から来た教会の暦の上での用語で、日本語では「待降節」あるいは「降臨節」と訳されます。イエス・キリストのご誕生を待ち望む期間として、西方教会(ローマカトリックおよびプロテスタントの諸教会)で広く採用され、期間は、クリスマスの4週前の日曜日から12月24日までとされています。
具体的に言うと、アドベントは11月30日に最も近い日曜日から始まります。最も早い年は11月27日から始まり(今年がそうです)、もっとも遅い年では12月3日から始まります。毎年の12月25日の該当曜日に影響を受けますから、アドベントの日数は、最大で6日間の差が生じます。今年は、日数が最も多い年になります。
アドベントの季節に合わせて、バプテスト女性連合では「世界バプテスト祈祷週間」を設けています。ロティ・ムーンという女性宣教師の遺志を受け継ぎ、世界伝道の働きを特別に心に刻み、献金をささげる1週間を過ごします。神さまが独り子なるイエスさまを下さったようにわたしたちも宣教師の働きのために祈りと献金をささげましょう。
●11月27日 第1アドベント・世界祈祷週間礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
旧約聖書の「ルツ記」に記される出来事が起こったのは、士師の時代です。ユダのベツレヘム出身者であるエリメレクは、飢饉を避けるため妻ナオミと二人の息子を伴って、モアブの地に移り住みました。モアブとは、死海の東南部に広がる地域です。その後、エリメレクは妻ナオミを残して死んでしまいます。さらに、二人の息子たちも、それぞれの妻オルパとルツをめとりますが、二人とも妻を残したまま死んでしまうのです。
そこで、ナオミは夫の故郷ユダに帰ることを決意し、息子たちの寡婦となった二人の嫁に対し、それぞれの故郷に帰るようすすめました。オルパは、自分の故郷に帰りますが、ルツだけはナオミのそばにいることを望みます。こうして二人は、エリメレクの故郷、ベツレヘムに帰郷するのです。
この物語のポイントは、異邦人であり かつ寡婦という弱い立場の女性ルツが、ユダヤの律法に従い、ユダヤ人の子孫を残したというところにあります。しかも、そのルツの子孫から、ダビデ王とイエス・キリストが出ることになるのです。
●11月20日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
新約聖書のマルコによる福音書によると、イエスに触れていただくために人々が子どもたちを連れて来た時、「弟子たちはその人たちを叱った」とあります(10章13節)。イエスの時代において、有名なラビや律法学者に、自分たちの子どもを祝福してもらうということが、ごく自然におこなわれていました。それゆえ、高名なラビとして知られていたイエスのもとに、人々が祝福を求め、子どもを連れてやってきたのです。
ところが、これを見た弟子たちはこの人たちを叱りました。おそらく、弟子たちは自分たちの主であるイエスが、エルサレムに向かう途上で、大変困難な状況の中にあったことが分かっていて、主がこれ以上ほかのことで煩わされることがないようにと配慮して、保護者たちを叱ったのでしょう。
しかし、イエスはこれを見て憤り、「子どもをわたしのところに来るままにしておきなさい」と言われます。子どもたちへの祝福は、神の国と関係のない事柄ではなかったのです。小さき者への祝福と福音の広がりとは、切り離すことのできないものでした。
●11月13日 子ども祝福礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
本日の礼拝は、先に天に召された方々のことを覚え、在りし時をしのびつつ、天上での永遠の平安を祈る「召天者記念礼拝」です。身近な人の死を経験することで、人間はいつか死ぬという厳粛な事実を目の当たりにするのはいつの世も同じです。しかし、イエス・キリストを主と信じる者は、死は人生の終わりではなく、新たな生の始まりであり、永遠の故郷である天国への旅立ちであることを信じます。それゆえ、人の死をあるがままに見つめ、悲しみの中にも安らぎを覚えるのです。
聖書の信仰によれば、死とは人間の魂が神のみもとに帰り、永遠のいのちに与かることであると信じます。それゆえ、死者の魂が永遠に安らかに憩うように祈りをささげることがおこなわれました。死者のために祈ることによって、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成しをしてくださることを信じるがゆえに、教会はキリスト教の初期時代から、死者を記念することを深い敬愛の心をもって尊び、死者のための礼拝や祈りをささげてきました。召天者を記念することは、先に召された人々を追憶し、それらの人々との交わりに与かることでもあります。
●11月 6日 召天者記念礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
本日の聖書箇所であるマタイ福音書25章には「十人のおとめのたとえ」として知られる主イエスの終末への備えや心構えを説く有名なたとえ話が記されています。ここには、当時のパレスチナでおこなわれていた結婚式の慣例に従い、花婿を出迎える役割を担うおとめたち10人が登場します。ところが、その日の夜、花婿が帰って来るのが大幅に遅れてしまったため、そのうちの5人の愚かなおとめたちは、花婿を待っている間に眠り込んでしまい、ともし火をともす油を切らしてしまったというのです。
いっぽう、残りの5人の賢いおとめたちは、油の用意があったため、花婿を出迎え、彼と一緒にスムーズに婚宴の席に入ることができたのでした。
このたとえ話で、イエスは何を語ろうとされたのでしょうか。「花婿」とは誰のことか、また「油」とは何を意味しているのか、そのことを思い巡らしながら、本日の聖書箇所から響いてくる主イエスのメッセージを聞いてゆきます。
召天者を記念する礼拝を来週に控えていますが、その意味でも本日のたとえ話は、興味深く読むことができることでしょう。
●10月30日 週報巻頭言 牧師 木村 一充