★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
室町時代の武将である細川勝元が開設した寺であり、歴史の教科書にも掲載され、世界遺産としても知られる京都の龍安寺には、茶室に入る人が事前に手や口を清めるための手水鉢としてつくばい(蹲)が設置されています。
このつくばいを上から見ると、真ん中がちょうど「口」という漢字になっており、その上下左右に4つの漢字が取り囲んでいます。それらは、時計回りに順に「五」、「隹」、「疋」、「矢」であって、一見意味不明ですが、口を漢字の一部と見立てることで「われ、ただ足るを知る」と読むことができます。これにより、このつくばいは「知足の蹲」と呼ばれます。
本日の民数記11章では、モーセに率いられて出エジプトを果たしたイスラエルの民が、荒野での渇きと飢えに悲鳴を上げ、「エジプトにいたほうが、まだましだった」と激しくつぶやいたとあります。モーセの祈りを聞かれた主はマナを降らせて、民を飢えから救いました。しかし、イスラエルの民はこれにも不平を言ってモーセを悩ませたのです。この民の姿は、実は私たちの姿であることを思わされるのです。
●7月17日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
本日の聖書箇所は、イエスのたとえ話の一つである「実のならないいちじくの木のたとえ」が記されているところです。ここから、イエスの語られる神の国のメッセージを聞きます。パレスチナで、いちじくの実はぶどうと並んで、代表的な果物でありました。干しいちじくなどの保存食として食べたようです。
ヨルダン川沿いの低地の町エリコでは、いちじくの化石が発見されています。これにより、世界最古の果樹園がパレスチナにあったと推定されています。いちじくは乾燥に強く、生命力も強いために、ぶどう畑の中に植えられることもありました。我が国でいえば、同じ農地に、米と麦が夏と冬の二つの季節において植えられ、栽培、収穫されるように、「果実の二毛作」として、栽培、収穫されたというのです。
ところが、本日の箇所では、このいちじくが三年もの期間、一度も実を結ぶことがなかったのでした。主人は園丁に「実を結ばないいちじくなど、栽培する意味はない。切り倒せ」と命じます。しかし、園丁は「もう一年、待ってください」と願います。その意味を探ります。
●7月10日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
コリント教会は、使徒パウロがギリシャ本土に地峡でつながるペロポネソス半島の「首」の部分に位置していたコリントで立上げた教会です。当時のコリントは、人口60万人をほこるギリシャ最大の都市でした。このコリントに、パウロはおよそ1年半滞在しました。
その後、パウロは次の目的地であるエフェソに向かいます。パウロが去ったあと、コリント教会を牧会したのはアレキサンドリア生まれのユダヤ人であったアポロでした。イエスの直弟子であったペトロも、自らの使者をコリント教会に派遣して、影響力を行使していたと見られています。(M・ヘンゲル;『ペトロ』参照)
本日のコリントの信徒への手紙一1章では、教会の中に生じた「分争」が問題になっています。具体的には、贔屓(ひいき)にする指導者をめぐる「勢力争い」が起きていたというのです。信仰歴の浅い信徒たちから成るコリント教会の中で起きたこのような問題に対して、パウロがどのような勧告をして、問題解決を図ったのか。本日はそのことを、与えられたみ言葉から聞いてゆきます。
●7月3日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
日本バプテスト連盟では、本日から来週の日曜日までの8日間を「神学校週間」と定めて、連盟に関わる3つの神学校の働きを覚えて献金と祈りをささげる時を持ちます。現在、連盟には「西南学院大学神学部」「九州バプテスト神学校」「東京バプテスト神学校」の3つの教派神学校がありますが、特に後ろの2つの神学校は、教会における信徒リーダーの養成という課題を解決するために、地方連合の呼びかけによって設立された社会人学生を対象とした夜間の神学校です。
わたし自身、1981年の4月から学士入学で西南学院大学神学部に編入学し、第1種奨学金(授業料および施設費などの基礎的費用)の支援のほか、生活費や本代の支援のために設けられた第2種奨学金にずいぶん助けられました。全国壮年会連合の「神学校献金」のおかげで、生活費を稼ぎ出すためのアルバイトの時間も少なくて済み、その分神学の学びに時間を振り向けることができたのです。ぜひ、献身者の学びを支える「神学校献金」にご協力ください。
●6月26日 神学校週間礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
詩編119編は、全部で150ある詩編の中でも最も分量の多い詩文で、全体で10ページにもおよぶ長さになります。ここまで長くなった理由は、この詩編がヘブライ語の22の文字をタイトルとする22の詩文から成り立っていて、そこでは、文頭の文字がすべて標題に掲げられた文字から始まる恰好になっているからです。つまり、詩編119編は、ヘブライ語のアルファベット順に並べられた22の文字をタイトルに掲げ、その文章の先頭の単語は、すべてそのタイトルとされている文字で始まっているのです。
詩人は、本日の聖書箇所で(標題はベート)「どのような財宝よりもあなたの定めに従う道を喜びとしますように」と歌っています。主の定められた掟(律法)に従い、その道を歩む人は幸いだというのです。神の定めに従うことが、そこまで喜びであるとは、なんという恵みでしょう。信仰の根底に流れる感情は「喜び」でなければなりません。詩人がなぜ主の律法を喜んでいるのか、本日はその理由をみ言葉から聞きます。
●6月19日 週報巻頭言 牧師 木村 一充