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日本バプテスト連盟では、本日から来週の日曜日までの8日間を「神学校週間」と定めて、連盟に関わる3つの神学校の働きを覚えて献金と祈りをささげる時を持ちます。現在、連盟には「西南学院大学神学部」「九州バプテスト神学校」「東京バプテスト神学校」の3つの教派神学校がありますが、特に後ろの2つの神学校は、教会における信徒リーダーの養成という課題を解決するために、地方連合の呼びかけによって設立された社会人学生を対象とした夜間の神学校です。
わたし自身、1981年の4月から学士入学で西南学院大学神学部に編入学し、第1種奨学金(授業料および施設費などの基礎的費用)の支援のほか、生活費や本代の支援のために設けられた第2種奨学金にずいぶん助けられました。全国壮年会連合の「神学校献金」のおかげで、生活費を稼ぎ出すためのアルバイトの時間も少なくて済み、その分神学の学びに時間を振り向けることができたのです。ぜひ、献身者の学びを支える「神学校献金」にご協力ください。
●6月26日 神学校週間礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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詩編119編は、全部で150ある詩編の中でも最も分量の多い詩文で、全体で10ページにもおよぶ長さになります。ここまで長くなった理由は、この詩編がヘブライ語の22の文字をタイトルとする22の詩文から成り立っていて、そこでは、文頭の文字がすべて標題に掲げられた文字から始まる恰好になっているからです。つまり、詩編119編は、ヘブライ語のアルファベット順に並べられた22の文字をタイトルに掲げ、その文章の先頭の単語は、すべてそのタイトルとされている文字で始まっているのです。
詩人は、本日の聖書箇所で(標題はベート)「どのような財宝よりもあなたの定めに従う道を喜びとしますように」と歌っています。主の定められた掟(律法)に従い、その道を歩む人は幸いだというのです。神の定めに従うことが、そこまで喜びであるとは、なんという恵みでしょう。信仰の根底に流れる感情は「喜び」でなければなりません。詩人がなぜ主の律法を喜んでいるのか、本日はその理由をみ言葉から聞きます。
●6月19日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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イエスがベタニアを通りかかったとき、イチジクの木が根元から枯れているのをご覧になりました。このイチジクは、先に実のならないイチジクとしてイエスに呪われた木でした(マルコによる福音書11章21節)。聖書学者たちは、このイチジクとは、不信のイスラエルのことを指していると考えます。神から選ばれ、あれほど多くの預言者から罪の悔い改めを迫られたにもかかわらず、それに聞き従わなかった神の民イスラエル…。イエスは、そのイスラエルのことを深く悲しんでおられるのです。
これに続いて、「神を信じなさい」とイエスは弟子たちに言われます。さらに「何事も祈り求めるものはすべて、既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる」と語られました。「求めるものはすべて与えられる」という御言葉をどう考えればよいのか、有名なマタイによる福音書7章、山上の説教の一節からともに考えます。祈りとは、確かに願い求めですが、同時に神の御心を問う行為でもあります。「祈りがかなう」とはどういうことなのか、それを本日の御言葉から聞きます。
●6月12日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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今朝はペンテコステ礼拝です。ペンテコステとは、ギリシャ語で「五十番目」ないしは「五十日目」という意味を持つ序数です。イエス・キリストの十字架と復活の出来事から五十日目に、エルサレムにとどまっていた弟子たちの上に激しい風が吹いてきて、天から舌のようなものが分かれ分かれに現れ、使徒たちの上にとどまったと聖書は言います。
ここでいう「風」とは、そのまま「神の息」を表し、創世記2章で記されるアダムが主なる神によって鼻から息を吹きかけられて人となった出来事と深く関連しています。すなわち、聖霊の注ぎを受けて、弟子たちは生きた者になったということです。
イエスが天に上げられた日、すなわち昇天の日から十日後にこの「聖霊降臨」が起こりました。これによって、弟子たちはさまざまな国の言葉で福音を語り始めるようになります。ゆえに、ペンテコステは教会が誕生した日というより、福音の言葉がイエスから弟子たちに継承された日、世界伝道が始まった日というべきです。
●6月5日 ペンテコステ礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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本日の聖書箇所のエフェソの信徒への手紙の宛先であるエフェソ教会は、コリント伝道を終えたパウロが、プリスキラとアキラという信徒の夫婦を伴って、その次に開拓した教会でした。エフェソは、コリントの対岸のアナトリア半島の西岸にあり、ギリシャ人によって建設された町でした。町の中央には偉大な女神アルテミスを祀る神殿があって、世界中の人々が参拝に訪れていました。
そのような異教の町エフェソで、パウロは、イエス・キリストの福音を語り、キリストがユダヤ人とギリシャ人の間の対立や隔ての中垣を取り除き、十字架によって敵意を滅ぼすことで両者が互いに和解し合うことができるようになったと語ります(2章16節)。キリストによって、今やお互いが一つになったというのです。
信仰を与えられることによって、わたしたちは古い人を脱ぎ捨て、神にかたどって造られた新しい人を身に着ける者になったと、パウロは言います。そのように新しくされた者として、私たちがどのように振舞えばよいのか。それを本日のみ言葉から聞いてゆきます。
●5月29日 週報巻頭言 牧師 木村 一充