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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-08-21 14:16:18 (382 ヒット)

礼拝説教「起き上がりなさい」 ヨハネによる福音書 5:1-9
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
週報巻頭言「礼拝とは何か」

 先週の役員会で、礼拝の司式をめぐっての話し合いが持たれ、その議論の中でそもそも礼拝とは何なのかということが話題になりました。礼拝とは何かというテーマを学ぶには、越川弘英という人が翻訳した『礼拝とは何か』(J.E.バークハート;日本キリスト教団出版局)という本が優れており、その中に丁寧で分かりやすい解説が記されています。
 この本の冒頭で、バークハートは礼拝とは何かという問いを設定し、次のように述べます。「礼拝とは何か。それは、はるかな過去の時代から、『人間が神のしもべである』ことを示そうとする営みであった」と。つまり、礼拝を通して、「神こそが、われわれのまことの主である」とわれわれは告白し、宣言しているというのです。
 さらに、礼拝とは「神の恵み深さ」に対する人間の側の「祭儀的な応答」であるともいいます。「祭儀的」とは、祝祭にあずかるような高揚感のもと、儀式を用いて、厳粛かつ静粛に、神から注がれる愛と恵みを、溢れるほど受けるということです。礼拝を通して、わたしたちは活ける神と交わり、そこから命をいただくのです。

●8月21日 週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-08-14 16:08:18 (377 ヒット)

礼拝説教「来たれ、主の平和」 ミカ書 4:1-3
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
週報巻頭言「平和祈念礼拝」

 8月に入り、今年も8・15を迎えます。77年前のこの日の正午、昭和天皇によって、日本が連合国側の提示した「ポツダム宣言」を受け入れ、無条件降伏することが、ラジオで全国放送されました。戦争が終わったのです。
 戦争の世紀と言われる20世紀が過ぎ去り、21世紀に入った今も戦争がおこなわれています。ロシアによるウクライナ侵攻が始まって約6か月になりますが、未だ停戦の見通しはついていません。新・旧約の聖書において「平和」は、その中心的なメッセージとして語り継がれました。旧約聖書には「平和」(シャーローム)という言葉が、全部で237回も使われています。まさに「最重要な言葉」の一つと言えましょう。
 ギリシャ人は、平和を戦争のない「時間」として捉えました。しかし、ユダヤ人は、平和とは神の義(ツェダカ)、または神の真実(エメト)が、社会に満ち満ちている状態を指すと考えました。つまり、平和を神と人間の「関係」において捉えたのです。平和は自然に与えられるものではなく「作り出す」ものだったのです。

●8月14日 平和祈念礼拝 週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-08-07 14:24:53 (489 ヒット)

礼拝説教「パンだけで生きるのか」 マタイによる福音書 4:1-4
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
週報巻頭言「1年が過ぎて」

 昨年の8月1日に当教会に着任してから1年が経ちました。時間の流れの早さに、今さらながら驚いています。最初の3ヵ月は単身赴任のかたちでした。テレビもなく、牧師館2階は、食事とお風呂、さらに睡眠のために使うだけで、あとは一階牧師室で日中を過ごしました。この間、牧師館のエアコンを一度も使うことがなかったため、エアコンの点け方が分からなかったほどでした。10月に家族が越してきて、初めてエアコンを稼働させました。するとどうでしょう。性能がとてもよくて、室内があっという間に冷えたのです。このとき、改めて、牧師招聘にあたって、役員を始めとする教会員のみなさまが、牧師館を丁寧に掃除し、さまざまな家具を新調してくださったことを実感しました。この場をお借りして皆さまに感謝を申し上げます。本当に有難うございました。
 コロナ感染が収まらず、集会もままならない中での1年でしたが、それでも神さまの支えと守りを実感しております。 まことに微力ではありますが、神さまの助けを頂いて、引き続き、主のみ業に全力で励みたいと願っております。

●8月7日 週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-08-06 18:06:49 (422 ヒット)

礼拝説教「信仰による義」 ローマの信徒への手紙 3:21-26
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
週報巻頭言「信仰による義」

 聖書の民であるユダヤ人は、モーセにより与えられた律法を守ることで、神に選ばれた民であることを確認し、また神との正しい関係(神の義)を勝ち取ろうとしました。その代表的な例が、割礼と安息日の遵守です。この二つを守り抜くことで、彼らは非ユダヤ人と自分たちを「区別」しようとしました。
 たとえば、当時のローマ軍を構成していた兵士たちの多くは傭兵、つまり金銭で雇われた兵士でしたが、ユダヤ人は安息日に戦闘することを拒否します。それでは話にならないということで、結果的にユダヤ人は兵役の対象から除外されるようになります。このように目に見える「しるし」を外部に表すことが、ユダヤ人であることの証拠だとされました。
 しかし、パウロは「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません」と 言います(ローマの信徒への手紙2章28節)。神に選ばれた民になるために、外見は問題ではない、内面が重要だというのです。本日は「人は、ただ信仰によってのみ義とされる」という命題、「信仰義認」というテーマについて、ローマ書から学びます。

●7月31日 週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2022-07-24 15:09:41 (410 ヒット)

礼拝説教「キリストの証人」 使徒言行録 4: 5-14
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
週報巻頭言「キリストの証人」

 使徒言行録4章では、前の章でペトロとヨハネが足の不自由な男を癒した奇跡行為のあと、そのまま神殿で民衆たちにみ言葉の宣教をしていた場面が記されています。これを見かけたサドカイ派の人々が、二人がイエスの死人からのよみがえりを宣べ伝えているのを見て、二人を捕え、獄に入れたというのです。
 サドカイ派の人々は、死者の復活という教義を受け入れていませんでした。彼らは裕福な家柄出身で、サンヘドリン(最高法院)のメンバーとして幅をきかせ、大土地所有者ないしは貴族階級としての力をふるっていたのです。
 この二人の投獄の翌日、議員、長老、サドカイ派の人々がエルサレムに集まります。二人を裁判にかけ、審問しようとしたのです。ペトロは、ここで「この人による以外に救いはない。」と語り、イエス・キリストという名前以外に、天下に人々を救いに導く力はない、ということを語ります。「無学なただの人」であるペトロとヨハネの宣教を聞き、彼らは驚きました。しかも、彼らの傍らには癒された男が立っていました。この彼こそ、キリストによる救いの生き証人でした。

●7月24日 週報巻頭言  牧師 木村 一充


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