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聖書の民であるユダヤ人は、モーセにより与えられた律法を守ることで、神に選ばれた民であることを確認し、また神との正しい関係(神の義)を勝ち取ろうとしました。その代表的な例が、割礼と安息日の遵守です。この二つを守り抜くことで、彼らは非ユダヤ人と自分たちを「区別」しようとしました。
たとえば、当時のローマ軍を構成していた兵士たちの多くは傭兵、つまり金銭で雇われた兵士でしたが、ユダヤ人は安息日に戦闘することを拒否します。それでは話にならないということで、結果的にユダヤ人は兵役の対象から除外されるようになります。このように目に見える「しるし」を外部に表すことが、ユダヤ人であることの証拠だとされました。
しかし、パウロは「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません」と 言います(ローマの信徒への手紙2章28節)。神に選ばれた民になるために、外見は問題ではない、内面が重要だというのです。本日は「人は、ただ信仰によってのみ義とされる」という命題、「信仰義認」というテーマについて、ローマ書から学びます。
●7月31日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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使徒言行録4章では、前の章でペトロとヨハネが足の不自由な男を癒した奇跡行為のあと、そのまま神殿で民衆たちにみ言葉の宣教をしていた場面が記されています。これを見かけたサドカイ派の人々が、二人がイエスの死人からのよみがえりを宣べ伝えているのを見て、二人を捕え、獄に入れたというのです。
サドカイ派の人々は、死者の復活という教義を受け入れていませんでした。彼らは裕福な家柄出身で、サンヘドリン(最高法院)のメンバーとして幅をきかせ、大土地所有者ないしは貴族階級としての力をふるっていたのです。
この二人の投獄の翌日、議員、長老、サドカイ派の人々がエルサレムに集まります。二人を裁判にかけ、審問しようとしたのです。ペトロは、ここで「この人による以外に救いはない。」と語り、イエス・キリストという名前以外に、天下に人々を救いに導く力はない、ということを語ります。「無学なただの人」であるペトロとヨハネの宣教を聞き、彼らは驚きました。しかも、彼らの傍らには癒された男が立っていました。この彼こそ、キリストによる救いの生き証人でした。
●7月24日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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室町時代の武将である細川勝元が開設した寺であり、歴史の教科書にも掲載され、世界遺産としても知られる京都の龍安寺には、茶室に入る人が事前に手や口を清めるための手水鉢としてつくばい(蹲)が設置されています。
このつくばいを上から見ると、真ん中がちょうど「口」という漢字になっており、その上下左右に4つの漢字が取り囲んでいます。それらは、時計回りに順に「五」、「隹」、「疋」、「矢」であって、一見意味不明ですが、口を漢字の一部と見立てることで「われ、ただ足るを知る」と読むことができます。これにより、このつくばいは「知足の蹲」と呼ばれます。
本日の民数記11章では、モーセに率いられて出エジプトを果たしたイスラエルの民が、荒野での渇きと飢えに悲鳴を上げ、「エジプトにいたほうが、まだましだった」と激しくつぶやいたとあります。モーセの祈りを聞かれた主はマナを降らせて、民を飢えから救いました。しかし、イスラエルの民はこれにも不平を言ってモーセを悩ませたのです。この民の姿は、実は私たちの姿であることを思わされるのです。
●7月17日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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本日の聖書箇所は、イエスのたとえ話の一つである「実のならないいちじくの木のたとえ」が記されているところです。ここから、イエスの語られる神の国のメッセージを聞きます。パレスチナで、いちじくの実はぶどうと並んで、代表的な果物でありました。干しいちじくなどの保存食として食べたようです。
ヨルダン川沿いの低地の町エリコでは、いちじくの化石が発見されています。これにより、世界最古の果樹園がパレスチナにあったと推定されています。いちじくは乾燥に強く、生命力も強いために、ぶどう畑の中に植えられることもありました。我が国でいえば、同じ農地に、米と麦が夏と冬の二つの季節において植えられ、栽培、収穫されるように、「果実の二毛作」として、栽培、収穫されたというのです。
ところが、本日の箇所では、このいちじくが三年もの期間、一度も実を結ぶことがなかったのでした。主人は園丁に「実を結ばないいちじくなど、栽培する意味はない。切り倒せ」と命じます。しかし、園丁は「もう一年、待ってください」と願います。その意味を探ります。
●7月10日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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コリント教会は、使徒パウロがギリシャ本土に地峡でつながるペロポネソス半島の「首」の部分に位置していたコリントで立上げた教会です。当時のコリントは、人口60万人をほこるギリシャ最大の都市でした。このコリントに、パウロはおよそ1年半滞在しました。
その後、パウロは次の目的地であるエフェソに向かいます。パウロが去ったあと、コリント教会を牧会したのはアレキサンドリア生まれのユダヤ人であったアポロでした。イエスの直弟子であったペトロも、自らの使者をコリント教会に派遣して、影響力を行使していたと見られています。(M・ヘンゲル;『ペトロ』参照)
本日のコリントの信徒への手紙一1章では、教会の中に生じた「分争」が問題になっています。具体的には、贔屓(ひいき)にする指導者をめぐる「勢力争い」が起きていたというのです。信仰歴の浅い信徒たちから成るコリント教会の中で起きたこのような問題に対して、パウロがどのような勧告をして、問題解決を図ったのか。本日はそのことを、与えられたみ言葉から聞いてゆきます。
●7月3日 週報巻頭言 牧師 木村 一充