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本日の聖書箇所であるマタイ福音書25章には「十人のおとめのたとえ」として知られる主イエスの終末への備えや心構えを説く有名なたとえ話が記されています。ここには、当時のパレスチナでおこなわれていた結婚式の慣例に従い、花婿を出迎える役割を担うおとめたち10人が登場します。ところが、その日の夜、花婿が帰って来るのが大幅に遅れてしまったため、そのうちの5人の愚かなおとめたちは、花婿を待っている間に眠り込んでしまい、ともし火をともす油を切らしてしまったというのです。
いっぽう、残りの5人の賢いおとめたちは、油の用意があったため、花婿を出迎え、彼と一緒にスムーズに婚宴の席に入ることができたのでした。
このたとえ話で、イエスは何を語ろうとされたのでしょうか。「花婿」とは誰のことか、また「油」とは何を意味しているのか、そのことを思い巡らしながら、本日の聖書箇所から響いてくる主イエスのメッセージを聞いてゆきます。
召天者を記念する礼拝を来週に控えていますが、その意味でも本日のたとえ話は、興味深く読むことができることでしょう。
●10月30日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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この朝与えられた聖書である詩編23編は、詩編のみならず、旧約聖書の中でももっともよく知られている詩編ではないかと思います。文語訳では「主はわが牧者なり。我乏しきことあらじ。主は我を緑の野に伏させ、憩いの汀(みぎわ)にともない給う」というような訳文で、多くの人に暗唱されてきました。この詩編で、詩人はイスラエルの神(ヤハウェ)が羊飼いとなって、羊のように弱いわたしたちを養い守り、導いて下さると告白するのです。
羊は視力が弱く、仮に10メートルほど先に野獣がいたとしても、それを判別することができません。平地が少ないパレスチナで、水を求めて谷川に降りる途中、がけや穴に落ちて死んでしまうこともありました。どこに緑の草があるのかも知りません。要するに、羊飼いがいなければ、まともに生きてゆくことができないほど、弱い動物だったのです。しかし、神さまがわたしの羊飼いとなってくださるから、わたしには何も欠けることがないと、詩人は言います。この詩人のように、主がわたしの羊飼いだから、私たちは平安でいることができるという信仰を強く持ちたいと思います。
●10月23日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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マルコによる福音書2章には、ガリラヤ湖の近くで、イエスがアルファイの子レビという名の徴税人と出会い、「わたしに従ってきなさい」と呼びかけ、弟子とされた出来事が書かれています。このレビは、並行記事であるマタイ福音書9章では、マタイと呼ばれています。主イエスの弟子の中には、当時のユダヤの敵国であったローマに雇われて、税金徴収を請け負う仕事をしていた人がいたということです。
当時の徴税人は、同胞のユダヤ人から通行税や商取引にかかわる税金を取りたてました。地区ごとに徴税のノルマが定められ、それを納めればあとはそれ以上いくら取り立てても、原則としてお咎めなしだったといいます。ただ、法外な取り立てをした場合は、訴えられ、ローマ法による裁判にかけられました。
売国奴ともみなされていた徴税人や 罪人たちと一緒に、イエスは食事をしたと本日の箇所に書かれています。神の国の饗宴ともいえる食事を囲む食卓に、罪人たちが与っていたのです。本日は、この聖書の箇所からイエスのメッセージを聞いてゆきます。
●10月16日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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出エジプト記は、イスラエルの民がモーセに率いられ、奴隷の地であったエジプトから脱出した出来事が書き記された書物です。その道中で、彼らがシナイ山に着いたとき、主なる神から声があり、山に登ったモーセに、十戒を記した2枚の石の板が与えられます。いわゆる「シナイ契約」によって、イスラエルに律法が与えられることになるのです。
このように、出エジプトはイスラエルの新しい歴史を切り開く出来事でした。約束の地カナンを目指す荒野の旅は決してたやすいものではありませんでした。しかし、この出エジプトによって、イスラエルは、いわば民族の解放を勝ち取ったのです。
本日の3章は、そのモーセが、ミディアンの地で羊飼いをしていたとき、神の山ホレブで柴の間に上がる炎を見かける場面です。そこは、活ける神が臨在される場所でした。「あなたの履物を脱ぎなさい」この主の言葉に従って、神を礼拝したモーセに、主なる神は出エジプトの大事業をお命じになったのです。
本日は、このモーセの召命の物語を通して、神の言葉に耳を傾けます。
●10月9日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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例年、プロ野球のシーズンが終わり、ストーブリーグと呼ばれる季節を迎えると、必ず話題に上るのが、翌年の契約更改のことです。選手の来季の契約がどうなったか、サインしたかしなかったか、そのような話がスポーツニュース等で取り上げられます。
もう、ずいぶん昔になりましたが大洋ホエールズという球団に高木豊という選手がおりました。ある年の秋、彼は球団との交渉の席で、「来季は契約しない」と宣告されます。要するに「戦力外通告」を受けたのです。その結果を奥さんに伝えるという場面を、私はたまたま、テレビのニュース番組で見ました。
その年の働きぶり、加齢によるパフォーマンスの低下を傍らで見ていた奥さんは、豊氏の話を黙って聞いた後、「長い間お疲れ様でした。これからは、第2の人生のことを考えましょう。」と豊氏に声をかけたのです。金の切れ目が縁の切れ目、というのではない、清々しい生き方、共に苦労を引き受けて行くという伴侶の姿がそこにはありました。神さまの愛もこれに似ています。ローマの信徒への手紙から、その神の愛について学びます。
●10月2日 週報巻頭言 牧師 木村 一充