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新約聖書のマルコによる福音書によると、イエスに触れていただくために人々が子どもたちを連れて来た時、「弟子たちはその人たちを叱った」とあります(10章13節)。イエスの時代において、有名なラビや律法学者に、自分たちの子どもを祝福してもらうということが、ごく自然におこなわれていました。それゆえ、高名なラビとして知られていたイエスのもとに、人々が祝福を求め、子どもを連れてやってきたのです。
ところが、これを見た弟子たちはこの人たちを叱りました。おそらく、弟子たちは自分たちの主であるイエスが、エルサレムに向かう途上で、大変困難な状況の中にあったことが分かっていて、主がこれ以上ほかのことで煩わされることがないようにと配慮して、保護者たちを叱ったのでしょう。
しかし、イエスはこれを見て憤り、「子どもをわたしのところに来るままにしておきなさい」と言われます。子どもたちへの祝福は、神の国と関係のない事柄ではなかったのです。小さき者への祝福と福音の広がりとは、切り離すことのできないものでした。
●11月13日 子ども祝福礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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本日の礼拝は、先に天に召された方々のことを覚え、在りし時をしのびつつ、天上での永遠の平安を祈る「召天者記念礼拝」です。身近な人の死を経験することで、人間はいつか死ぬという厳粛な事実を目の当たりにするのはいつの世も同じです。しかし、イエス・キリストを主と信じる者は、死は人生の終わりではなく、新たな生の始まりであり、永遠の故郷である天国への旅立ちであることを信じます。それゆえ、人の死をあるがままに見つめ、悲しみの中にも安らぎを覚えるのです。
聖書の信仰によれば、死とは人間の魂が神のみもとに帰り、永遠のいのちに与かることであると信じます。それゆえ、死者の魂が永遠に安らかに憩うように祈りをささげることがおこなわれました。死者のために祈ることによって、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成しをしてくださることを信じるがゆえに、教会はキリスト教の初期時代から、死者を記念することを深い敬愛の心をもって尊び、死者のための礼拝や祈りをささげてきました。召天者を記念することは、先に召された人々を追憶し、それらの人々との交わりに与かることでもあります。
●11月 6日 召天者記念礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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本日の聖書箇所であるマタイ福音書25章には「十人のおとめのたとえ」として知られる主イエスの終末への備えや心構えを説く有名なたとえ話が記されています。ここには、当時のパレスチナでおこなわれていた結婚式の慣例に従い、花婿を出迎える役割を担うおとめたち10人が登場します。ところが、その日の夜、花婿が帰って来るのが大幅に遅れてしまったため、そのうちの5人の愚かなおとめたちは、花婿を待っている間に眠り込んでしまい、ともし火をともす油を切らしてしまったというのです。
いっぽう、残りの5人の賢いおとめたちは、油の用意があったため、花婿を出迎え、彼と一緒にスムーズに婚宴の席に入ることができたのでした。
このたとえ話で、イエスは何を語ろうとされたのでしょうか。「花婿」とは誰のことか、また「油」とは何を意味しているのか、そのことを思い巡らしながら、本日の聖書箇所から響いてくる主イエスのメッセージを聞いてゆきます。
召天者を記念する礼拝を来週に控えていますが、その意味でも本日のたとえ話は、興味深く読むことができることでしょう。
●10月30日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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この朝与えられた聖書である詩編23編は、詩編のみならず、旧約聖書の中でももっともよく知られている詩編ではないかと思います。文語訳では「主はわが牧者なり。我乏しきことあらじ。主は我を緑の野に伏させ、憩いの汀(みぎわ)にともない給う」というような訳文で、多くの人に暗唱されてきました。この詩編で、詩人はイスラエルの神(ヤハウェ)が羊飼いとなって、羊のように弱いわたしたちを養い守り、導いて下さると告白するのです。
羊は視力が弱く、仮に10メートルほど先に野獣がいたとしても、それを判別することができません。平地が少ないパレスチナで、水を求めて谷川に降りる途中、がけや穴に落ちて死んでしまうこともありました。どこに緑の草があるのかも知りません。要するに、羊飼いがいなければ、まともに生きてゆくことができないほど、弱い動物だったのです。しかし、神さまがわたしの羊飼いとなってくださるから、わたしには何も欠けることがないと、詩人は言います。この詩人のように、主がわたしの羊飼いだから、私たちは平安でいることができるという信仰を強く持ちたいと思います。
●10月23日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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マルコによる福音書2章には、ガリラヤ湖の近くで、イエスがアルファイの子レビという名の徴税人と出会い、「わたしに従ってきなさい」と呼びかけ、弟子とされた出来事が書かれています。このレビは、並行記事であるマタイ福音書9章では、マタイと呼ばれています。主イエスの弟子の中には、当時のユダヤの敵国であったローマに雇われて、税金徴収を請け負う仕事をしていた人がいたということです。
当時の徴税人は、同胞のユダヤ人から通行税や商取引にかかわる税金を取りたてました。地区ごとに徴税のノルマが定められ、それを納めればあとはそれ以上いくら取り立てても、原則としてお咎めなしだったといいます。ただ、法外な取り立てをした場合は、訴えられ、ローマ法による裁判にかけられました。
売国奴ともみなされていた徴税人や 罪人たちと一緒に、イエスは食事をしたと本日の箇所に書かれています。神の国の饗宴ともいえる食事を囲む食卓に、罪人たちが与っていたのです。本日は、この聖書の箇所からイエスのメッセージを聞いてゆきます。
●10月16日 週報巻頭言 牧師 木村 一充