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本日の聖書箇所である使徒言行録3章には、ペンテコステの日から、数日後に起きたエルサレム神殿での出来事が、たいへん印象的に記されています。
ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時間に合わせて、神殿に上っていきました。すると、生れながら足の不自由な男がそこに運ばれてきました。彼は、毎日この時間に合わせて、「美しい門」の前に置いてもらっていた、と聖書は記します。「運ばれる」とか「置く」という表現から分かることは、この男が一人の人間としてではなく、あたかもモノであるかのように扱われていたということです。
彼は、ペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞いました。しかし、ペトロは答えて言います。「わたしには金や銀はない」これを聞いて、物乞いはがっかりしたことでしょう。しかし、その次にペトロが放った言葉、それが次の言葉でした。「しかし、わたしが持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、彼の右手を取って立ち上がらせたのでした。本日は、この出来事から、神のメッセージを読み取ってゆきます。
●9月8日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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詩編23編は、150編ある詩編の中でも特に美しい詩文がちりばめられた、たいへん格調高い詩編として知られています。ここで、詩人はダビデの名を借りて自らの主なる神を牧羊者(羊飼い)にたとえ、その憐れみ深い取りはからいを、羊飼いの仕事に喩えて説明します。「主は、われを緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわ(汀)にともないたもう」(2節)は、その一例です。
通常、草食動物たちは、草原で腹ばいになって休むということをしません。彼らはライオンや豹(ひょう)、ハイエナや野犬などの肉食獣に襲われたとき、全速力で逃げられるよう、つねに立って草を食べるのです。
ところが、今日の詩編の作者は、主なる神が自分たちか弱い羊を、主なる神が羊飼いとなって、緑の牧場に伏させ(腹ばいにさせ、憩いのみぎわに伴ってくださる、と書いています。
羊は草食動物の中でも、もっとも弱い動物であり、足も遅く、ひどい近視のために外敵(捕食動物)が身近に迫っていることさえ判別できないといいます。主なる神はそのように弱い私たちを、憐み深い牧者となって養ってくださるのです。本日は、この詩編23編から、神の言葉を分かち合います。
●9月1日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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エフェソの教会は、使徒パウロが第2回伝道旅行の最後の訪問先である小アジアの首都エフェソで、開拓伝道によって立てた教会です。パウロは、この地に2年にわたって滞在し、ここでキリストの福音を宣べ伝えました。結果的に、パウロが訪れたギリシャの諸都市のうち、このエフェソでの滞在期間がもっとも長期になりました。この手紙は、パウロがエフェソを離れた後、さまざまな試練にさらされた同教会の信徒たちに書き送った手紙です。
パウロは、この手紙の最後で「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」(6章10節)と述べます。神の武具を身に着け、霊の戦い(信仰の戦い)に勝利せよ、というのです。具体的には、真理を帯とし、正義の胸当てを着け、平和の履物、信仰の盾、救いの兜(かぶと)を身に着け、戦いの前線に出て行きなさい、といいます。
わたしたちは、日々の生活で常に罪の誘惑にさらされ、さまざまな「世の力」による脅かしを受けています。そのような誘惑に立ち向かい勝利するために、目を覚まして根気強く祈りつづけるよう、パウロは勧告するのです。
●8月25日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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本日のマタイによる福音書10章28節以下では、わたしたちが何を恐れているのかということが問題となっています。ある人は、自分自身の体の衰え、病気に対して恐れを抱くのかもしれません。また、他の人は、自分と険悪な関係にある誰かとの対立や争いが起きること、今自分に与えられている富や力、有利な条件を失うことに対して、不安や恐れを抱くのかもしれません。
しかし、イエスは「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな」と語られます。大切なことは、「体」すなわち肉体ではなく「魂」すなわち「救い」の問題だと言われるのです。地上のもの、すなわちこの世の事柄は過ぎ去り、いつかは無くなってゆくものです。しかし、神さまとの関係は、地上を生きる間も召されたその後も、続いてゆくのです。
だとすれば、過ぎ去るものに心を奪われて、心配したりびくびくしたりすることなく、自分にできること、なすべきことを全力で成し遂げ、あとは神さまに委ねましょう。一羽の雀にさえ目をかけてくださる神さまは、ゆるぎなく確かにあなたを守ってくださるのです。
●8月18日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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本日の礼拝は、平和祈念礼拝としてささげます。今年は、1945年に日本が太平洋戦争に敗れ、連合国の提示したポツダム宣言を受諾することを決定した日(8・15)から数えて79年目となります。80年近い年が経過する中で、戦争を体験した人の数も相当に少なくなってきました。そのような中で、本日の礼拝で学童疎開を経験された一人の姉妹の「証し」を聞きます。
本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙12章において、使徒パウロは「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」と言います。この言葉こそ、まさに聖書が示す平和の倫理を表した言葉です。「目には目を、歯には歯を」という同等報復を規定したハムラビ法典は、当時としてはお手本となった法律でした。しかし、パウロはこの「同等報復」を否定し、悪に対して善をもって応えなさいと説くのです。これは、多くの人にとって非常識な言葉であり「浮世離れ」しているとさえ見られる言葉です。しかし、キリスト者はこの言葉に基づき、「平和を作り出す者」として生きるのです。
●8月11日 平和祈念礼拝 週報巻頭言 牧師 木村一充