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イエス・キリストが十字架につけられて息を引き取ったのは金曜日の午後3時頃のことでした。次の日は土曜日でユダヤの安息日になります。十字架上で刑死した犯罪人の遺体は、その日のうちに降ろす決まりになっていました。こうしてイエスの遺体は、アリマタヤのヨセフによって、彼の園の墓に納められました。
週の初めの日、マグダラのマリアがイエスの墓に行くと、墓を塞いでいた石が取り除けられ、わきに転がっているのを見ました。墓の中をのぞくと中は空っぽで、イエスの遺体がなくなっていたのです。そこに白い衣を着た天使が現れてマリアに言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。」「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」と。
イエスは死人のままで墓に留まるということをなさいませんでした。むしろ、墓を打ち破り、甦られて弟子たちの前に姿を現わされたのです。それは、かつてのような肉の体ではなく、霊の体による復活です。本日はパウロの手紙から、復活の意味について考えます。
●4月20日 イースター礼拝 週報巻頭言 牧師 木村一充
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主イエスがゲッセマネの祈りを祈り終えられる頃、イエスを裏切ったユダが民の長老や律法学者が遣わした群衆を引き連れてゲッセマネの園にやってきました。彼らは剣や棍棒を手に携えてイエスを捕え、大祭司(カィヤファ)の家に連行してゆきます。マルコ、マタイの福音書によれば、そこには(真夜中であるにもかかわらず)最高法院の議員たち全員が集まり、イエスの裁判(訊問)が始まったことが記されています。
ペトロは、捕縛された主イエスの後に従い、そのまま大祭司の中庭に入ると、そこで焚火にあたっていました。すると、そこにいた数人の人から「この人も、あのイエスと一緒にいた」という告発の言葉を聞きます。3人目の告発者は、ペトロがガリラヤ訛りの言葉だったことから、「この人もあの男の仲間だ」と証言したのです。ペトロはこれを聞いて、「わたしはあの人のことを知らない」と、3度にわたってイエスを否認しました。本日はこの箇所から神の言葉を聞いてゆきます。
●4月13日 受難週主日礼拝 週報巻頭言 牧師 木村一充
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イエスは、弟子たちと共に過越しの食事をお取りになった後、ゲツセマネと呼ばれる園に弟子たちを連れてお出かけになりました。そこは、エルサレムのすぐ近くにあるオリーブ山のふもとにあったオリーブの園で、過越しの祭りの時期には巡礼者たちが一夜を過ごす場所にもなったといいます。
そこにペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちを伴って行かれると、イエスは悲しみもだえ始められたと、聖書に書かれます。並行記事のあるルカによる福音書22章を見ると「汗が血の滴るように地面に落ちた」と書かれています。その祈りは次のようでした「父よ、できることならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いではなく御心のままに。」
ここで「杯」とは、自分の意思に反して自分に襲いかかってくる苦難や試練のことを指しています。わたしたちの人生でもあり得ることです。本日は、この箇所から響いてくるメッセージを、共に分かち合います。
●4月6日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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本日のマタイ福音書26章26節以下では、主イエスが十字架につけられる日の前夜に、弟子たちと取った最後の食事の席で起きた出来事が書かれています。この時の食事は、過越しの祭りに合わせ、ユダヤ人が自分たちの先祖がエジプトの地から逃れ、カナンの地に帰ってきた出エジプトの出来事を祝い、そのことを記念する過越しの食事でありました。ユダヤ人は、このとき小羊の肉、苦菜、酵母菌なしのパンとぶどう酒を、食材として食べました。
ところが、その食事の席でイエスは通常一家の家長がおこなう「パンを裂いて配る」という行為を行ったあと、「これはわたしのからだである」と語られました。さらに、ぶどう酒を飲む際に「これは、多くの人のために流されるわたしの血である」と語られます。食材であるパンとぶどう酒が、ご自身の体であり血であると言われたのです。この最後の晩餐の出来事を、わたしたちは「主の晩餐式」において追体験しています。本日は、ここから神のみ言葉に耳を傾けます。
●3月30日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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先週の礼拝説教で、棕櫚の日曜日と呼ばれる日にイエスの一行がエルサレムに入ったことを話しました。この日から「イエスの最後の1週間」が始まります。わたしたちは、今レントのただ中を過ごしていますが、この期間はわたしたちの救いのために十字架に架けられたお方を思いつつ、その苦しみと受難をおぼえて慎み深く過ごす期間となります。
本日のマルコ福音書14章では、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいた時に、一人の女が大変高価な香油の入った石膏の壺を壊し、そのすべてをイエスの頭に注ぎかけたと いう出来事が記されています。それは、ほかで売れば300デナリ以上もするという純粋な香油の入った壺でした。弟子たちはこれを見て「なぜ、このような無駄遣いをしたのか」と言って憤慨しました。しかし、イエスは「するままにさせておきなさい」と言われました。それは、なぜでしょうか。本日は、この聖書箇所から響いてくるメッセージに耳を傾けます。
●3月23日 週報巻頭言 牧師 木村一充