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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2025-06-29 16:13:45 (42 ヒット)

礼拝説教「律法の役割」  ガラテヤの信徒への手紙(Galatians)  3:21-25
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週報巻頭言「律法の役割」

  ガラテヤの信徒への手紙は「信仰による義」を説き明かす書簡として、ローマの信徒への手紙と並んで知られる書簡です。本日の箇所で、使徒パウロは「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下(もと)で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました」と述べています。(3:23)
  ここでいう「律法の下で監視される」とはどういうことなのか。また、これに続く「閉じ込められている」とはどういう状態を指すのかを考える必要があります。その前に、「律法」がユダヤ教においてどのようなものだったかを理解しておく必要があります。ひと言で言えば、それは神の民と呼ばれるにふさわしい生き方を規定する「生活の規範、信仰生活を送るためのルール」でした。しかし、イエスの時代には、それが「律法主義」の名のもとに清いものと清くないもの、選民と罪人を峻別するための道具になっていました。律法の行いによって、信仰が測られ、評価され、目に見える「しるし」が幅をきかせるようになっていたのです。それが、キリストの到来によってどう変わったのか、本日はそのことを共に考えます。

●6月29日   週報巻頭言  牧師 木村一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2025-06-22 15:13:17 (56 ヒット)

礼拝説教「盲人の癒し」  ヨハネによる福音書(John)  9:1-12
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週報巻頭言「盲人の癒し」

  本日のヨハネによる福音書9章では、主イエスがエルサレム神殿の近くで生まれつき目の見えない人を見かけられた時、弟子たちと交わした言葉が記されています。弟子たちは「先生、この人が生まれつき目が見えないのはだれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」と尋ねました。これに答えてイエスは言われます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
  このイエスの言葉は、新約聖書の中でも最も慰めと励ましに満ちた言葉です。この言葉によって立ち上がった人が教会の歴史の中でどれほど多くいたことであろうかと思わされます。洋の東西を問わず、何らかのハンディを抱えて生まれてきた人に対して、それは親の罪が子に報いたのだと、因果応報の思想でこれを説明しようとする人がいます。しかし、イエスはこれを否定し、本人や両親が過去に犯した罪のためではなく、ただ神の御業がその人の上に現れるためであると説くのです。過去ではなく未来に目を向け神の救いの業を信じるように、勧告するのです。本日は、この箇所から神の言葉に耳を傾けます。

●6月22日  神学校週間礼拝 週報巻頭言  牧師 木村一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2025-06-15 15:33:37 (70 ヒット)

礼拝説教「地の塩、世の光」  マタイによる福音書(Matthew)  5:13-16
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週報巻頭言「地の塩、世の光」

  マタイによる福音書5章には、主イエスが弟子たちに語られた「山上の説教」が書き記されています。「幸いなるかな、心の貧しい者!…」で始まる8つの祝福の言葉は、当時のユダヤ社会において、宗教的・経済的に差別され、虐げられていた人々にとってまさしく「慰めの言葉」として受け止められました。
  その「幸いなるかな!…」に続いて、主イエスがお語りになった言葉が、本日の説教題に引用されている言葉です。「あなたがたは地の塩である」また「あなたがたは世の光である」という、大変よく知られた言葉です。二つの文章は、そのまま直喩(キリスト者の社会的な立ち位置、社会でのあり様を、ストレートにたとえた表現)になっています。塩とは、血液をはじめとする人間の体液の成分として欠かせない物質です。また、光はわたしたちが日常生活をするために必要不可欠なものです。光のおかげで、わたしたちは暗い夜道を事故もなく車で走ることができるのです。このように、イエス・キリストを信じる者(キリスト者)も、この世にあって、なくてはならない存在です。本日は、この箇所から響いてくる聖書のメッセージに耳を傾けます。

●6月15日   週報巻頭言  牧師 木村一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2025-06-08 18:33:06 (87 ヒット)

礼拝説教「聖霊が降る日」  使徒言行録(Acts)  2:1-13
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週報巻頭言「聖霊が降る日」

  本日は、ペンテコステの礼拝をささげる日曜日です。ペンテコステとは、ギリシャ語で「50日目」という意味を持つ序数です。イエス・キリストの十字架と復活の出来事から七週間後に、エルサレムに留まっていた弟子たちの上に、天からの聖霊が降ってきたのです。弟子たちの上に激しい風が吹いてきて、天から舌のようなものが分かれ分かれに現れ、使徒たちの上にとどまったと使徒言行録は書き記しています。
  ここでいう「風」とは、「神の息」とも呼ばれ、命を与える力を持つと考えられました。創世記2章によると、主なる神は土のちりでアダムを造られ、その鼻に命の息を吹きかけられたといいます。これによって、人は生きる者になったのです。
  この聖霊降臨の出来事は、イエスが復活された後、40日にわたってご自身を現わされ、40日目に天に上げられた出来事に続いて起こりました。弟子たちは、エルサレムに留まり、二階の部屋で懸命に祈りました。その結果、イエスに代わって弟子たちを導き、助け主として彼らを励ます「弁護者」として、聖霊が天から注がれたというのです。ペンテコステとは、弟子たちがイエスに代わって福音を語り始めた記念の日です。

●6月8日  ペンテコステ礼拝  週報巻頭言  牧師 木村一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2025-06-01 18:42:28 (108 ヒット)

礼拝説教「カインとアベル 」  創世記(Genesis)  4:1-12
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週報巻頭言「カインとアベル」

  エデンの園を追放されたアダムとエバ夫妻には二人の男の子が与えられます。兄の名はカイン、弟はアベルといいました。二人は成長し、兄は土を耕す者、弟は羊を飼う者になります。二人はそれぞれの労働の成果を神にささげました。ところが、主なる神はアベルとその献げ物を顧みられましたが、カインとその献げ物は顧みられなかったというのです。なぜ、カインの献げ物は顧みられなかったのか。これにはいくつかの解釈、説明がありますが、本当の理由は分かりません。(新約聖書のヘブライ人への手紙はアベルの方が、信仰により優れた献げ物をささげたからだと説きます)カインは、自らの献げ物に対する神の対応に激しく憤りました。そうして、弟を野に連れ出し、これを打ち殺してしまったのです。
  悲惨な殺人事件によって、二人の息子を失ってしまったアダムとエバの悲しみはいかほどだったことでしょうか。この事件後聖書が描く救いの歴史は、どう展開するのか。本日は、創世記4章のカインとアベルの物語を手掛かりにして神の言葉に耳を傾けます。

●6月1日   週報巻頭言  牧師 木村一充


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