燃えあがる祭壇
列王記18章20−39節
1)3年後
エリヤの預言どおり、北王国イスラエルには長いひでりが続き飢饉が深刻となる。
原因は王アハブ(イゼベル夫婦)の背信にあるが、アハブはこの飢饉によって悔い改めることもなく、逆にエリヤへの怒りを燃えあがらせる。アハブはエリヤを指名手配にし、同時に主ヤーウェの預言者たちを皆殺しにしていく。
エリヤは神から隠され、守られ、3年の間、烏ややもめの手を通して養われ、匿われていた。あれから3年。
神の召しがエリヤに臨む。「アハブと全面的に対決するように」と。
凶暴なアハブの前に、エリヤは丸腰で進み出る。アハブは彼を見て怒りに燃え、「イスラエルを煩わす者よ」と憎しみをむき出しにする。(自分自身の煩い、思ったようにいかない現実を通して、自らを省みることをせず、あくまでもエリヤへの憎しみと怒りに転嫁しようとする稚拙で未熟な人格が見て取れる)
エリヤは、そのようなアハブの怒りに対し、「あなた自身のバアルへの背信こそが、この煩いの原因であることを知れ」と言い放ち、対決を挑む。イスラエルの人々と、バアルの預言者450人、アシラの預言者400人をカルメル山に集めることを要求した。アハブはこれを受け入れ(受け入れたのは、エリヤを侮っていたからだが)、イスラエルの歴史の中でも最も劇的な宗教的対決へと移っていくことになる。
2)カルメル山の対決
イスラエルと隣国フェニキアとの境界線上にあり、地中海に突き出た岬の突端にそびえるカルメル山に、エリヤは立つ。アハブの虐殺の結果、今ではただひとり残された主の預言者としてバアルの450人の預言者に立ち向かい、イスラエルの民に向かって呼びかけた。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか(口語訳:いつまで二つの間に迷っているのか)」とつきつける。「二つの間に迷う」、それが偶像礼拝、それが不信仰の本質である。
エリヤは、事柄をはっきりとするために、バアルの祭司・預言者たちと対決する方法を提示する。それは、自分と、バアルの祭司団とが、それぞれ一つずつ祭壇を築き、それぞれの神の名を呼んで、そこに火をつけてもらおうとする方法だった。
バアルの祭司たちは、バアルの名を激しく呼び、450人がかりで祭壇の周りを跳びまわり、また踊り狂った。しかし、声もなく、答える者もなく、彼らは疲れ果てたのだった。
エリヤはあえて祭壇に水をかけた。薪に火が付きにくくなるだろうに、あえて水瓶に三度も水をかけ、祭壇を水浸しにした。にもかかわらず、エリヤが主の名を呼び、主の御心を求めて祈ったとき、主の火が下り、すべてを炎が包み、なめ尽くし、焼き尽くした。
生ける神の、すばらしい御業であった。
そして、この結果を目の当たりに見たイスラエルの会衆はひれ伏し、「主ヤーウェこそ神である」(ヤーエリ)と、主を畏れ、主を讃えたのだった。
3)数に頼むな
たとえ祭司の数をそろえても、真理が無ければ無意味である。人間も都合にあわせて「真理」を作りあげるが、その真理に命がなければ、かならずそれは崩れ落ちる。そして真理は神にあり、主ヤーウェは生きておられる命の主だ。人間がそろえた祭司の数、今風に言うならば、人間がそろえた政治家の数や学者の数、あるいは人間が準備した資本金の額で、決して動かないのが神の真理。ほんとうの真理、つまり「神の御心」は450人のバアルの祭司・預言者が総動員が、どんなに熱心に働きかけても、動くことはない。これは、神の前での根本的な原理だ。信仰とは、ここに立つということだ。真理とは、主の御心である。主の御心は動かせないし、また主の御心は主の御心として動くのだ、と。このことを信じる者は、たった一人であったとしても祝福に招かれるということだ。
この日本社会にも、バアルの預言者の祭壇がいくつもそびえ立っている。バアルの預言者が大手をふって歩いている。しかし、それらのほとんどは、必ずどこかで、カルメル山の虚ろな疲れに包まれてしまうだろう。
御言葉(聖書)は、私たちを真理に結びつけることで、二つの間で迷い、結局思い煩う生き方から救い出そうとしてくれる。「真理とは何か」がわからず、どうしても迷う私たちに、イエス・キリストは「私が道であり、真理であり、いのちである」と語ってくださる。一人一人が、このイエス・キリストに立つことを人生を通して闘い取っていこうではないか。
4)燃えあがる祭壇
このカルメル山の対決の記事は、ある面で胸のすくような「勝負の物語」だと言える。我らの主が、まやかしの神に、明白に勝利するという勝利宣言、本物宣言の物語のように。
けれども、見落としてはならないことがある。それは、この対決が、まさに祭壇を燃やし、贖いの捧げ物を焼き尽くす方法で為されたことだ。祭壇とは、そもそも罪の赦しと贖いを求めて、生け贄を捧げ焼き尽くす場所である。生け贄が焼き尽くされるとき、そこでは「わたしの罪」が焼き尽くされていることをも意味する。
すなわち、このエリヤの祭壇が、水浸しになっているにもかかわらず炎でなめ尽くされたのは、決して赦されざるイスラエルの背信にもかかわらず、主はふたたび、このイスラエルを憐れみ、その罪を赦し、愛そうとなさったのだということだ。エリヤの祭壇に火が付いた、とは、この神の赦しの慈愛がふたたび燃えたのだということを表している。このことを見落としてはならない。
バアル信仰は、この世の富や安定を求める信仰だ。しかし、私たちが真に気づかねばならないのは、罪赦されて生きることであり、愛と養いの神のもとで生きることだ。
カルメル山の神の赦しと愛は、やがてカルバリ山で決定的な炎となって燃えあがった。主イエスは、まさにエリヤ以上に、たった一人で十字架という祭壇に、贖いの赦しの捧げ物となり、自らが屠られながら、また自らが人々の罪の赦しを祈る祭司となって、その命を余すところ無く燃焼された。エリヤの時のように、誰の目にもわかりやすい勝利ではない。しかし、イエスご自身が贖いの捧げ物であった以上、彼は焼き尽くされるしかなかった。徹底的な死を死ぬしかなかった。私たちの罪を焼き尽くし、私たちの罪を裁きを滅ぼすために。
しかし、十字架の苦しみの炎に焼き尽くされた神の子羊イエス・キリストは、三日目に墓の中よりよみがえり、勝利の命となられた。私たちもまた、そのイエス・キリストと共にある。
私のために燃えた祭壇がある。容赦なく焼き尽くされた捧げ物がある。私の罪をもはや決定的に赦し、もう一度、神の民として人生を歩んでいくようにと、私は神から想いをかけられている。キリスト者の人生とは、カルバリ山の祭壇に赦された者が、その恵みに応えて生きていく道のりである。
了
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