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メッセージ : 説教全文「ぶどう園に生きる」
投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-07-17 16:03:20 (1522 ヒット)

ぶどう園に生きる
マルコ12:1-12

1)物語
 「ある人がぶどう園をつくり、かきをめぐらし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」
 主人がここまでの準備をしてくださっているのです。主人は、農夫たちが働くことができるように、生きることができるようにと、その生活の環境を全て整えたのです。何もないところを開墾し、葡萄の木を植え、葡萄園にし、さらにその畑とそこで働く農夫たちを守るために隅々まで垣根を張り、しぼった葡萄汁をためていく酒船の穴まで用意し、またやぐらを立てて、その全ての準備を主人自らがした上で、農夫たちを雇い、その良い葡萄園を農夫たちに貸して旅に出た(戻っていった)と言うのです。
 農夫たちは、その整えられた葡萄園で、実る葡萄の世話をし、またその実った葡萄を収穫し、しぼり、葡萄酒として蓄えるていくのです。そうすれば良いのです。
 その季節が来たときに、この葡萄園の主人は、分け前を受け取ろうとして・つまり主人としての受け取り分を受け取ろうとして数人の僕たちを、この葡萄園に遣わしました。しかし、考えても見なかったことが起こります。信じられない事が起こり始めたのです。農夫たちは、主人(オーナー)から遣わされた召使いたちを袋だたきにし、あるものを殺し、あるものに重傷を負わせて、もちろん空手で帰らせたというのです。そのことを知らされた主人はにわかに信じられない気持ちだったことでしょう。けれども、主人は、再び前回よりも多くの召使いを葡萄園に遣わします。しかし、また同じ仕打ちを受けました。召使いたちは、侮辱され、暴行を加えられ、瀕死の状態にされたのです。
 農夫たちは、もはや強盗であり、暴徒でした。
 にもかかわらず、葡萄園の主人は、最後に我が子を、その農園に遣わすのです。息子を見れば自分自身として敬ってくれ、まさに主人そのものの意向を受けて受け取りにきたのだと、はっきりするだろうと思って、主人は息子を遣わしたのです。
 それを見た農夫たちは、それが主人の跡取り息子だと、明確に確認した上で、「あれを殺せば、この葡萄園はこれからずっと俺たちのものになる」と言って、この息子を農園の外に引きづり出して、集団リンチを加えて殺したというのです。
 何ともやりきれないたとえではありませんか。考えられないような、聞いていられないような、たとえではないでしょうか。けれども、イエス様が見る私たち人間の実際は、私たち人間の神様への態度は、そのようなものなのではないのか、と胸にささってきます。

2)主人は、なぜ息子を遣わすのか。
 それにしても、主人はどうして息子を遣わすのでしょうか。第一陣の召使いが暴行を加えられ、まさかと思って遣わした第二陣の使者たちももっと徹底した仕打ちを加えられて帰ってきたのです。もはや、農夫たちが主人をないがしろにし、反逆を企て、暴徒のようになっている、ということが明白になったのです。豊かであったはずの葡萄園は、もはや悪巧みに息巻く強盗たちの巣窟になっているのです。その危険な場所に、なぜ、主人は息子を送り込むのでしょうか。この息子が、威厳に満ち、また事実、格闘技か何かの心得があって強い男だったからでしょうか。この息子には、農夫たちがたばになってかかってきてもそれを跳ね返すだけの力があったからでしょうか。
 いいえ、そうではありません。主人がその危険地帯に息子を送り込んだのは、農夫たちと、心から、まごころを込めて、コンタクトを取りたかったからです。「葡萄酒の収穫」、つまり主人(オーナー)として納品され、儲けさせてもらわねばならなかった「葡萄酒に」こだわったからではありません。「農夫たちに」こだわったからです。農夫たちを愛していたからです。
 この主人は、農夫たちの豹変ぶりに心を痛めたのです。農夫たちの考え違いをとても心配したのです。彼ら農夫たちが、いつまでもこの葡萄園で生きて暮らしていくことができる農夫たちであり続けるために、農夫たちの心に入り込みたくて、農夫たちの暴れる心に向かい合いたくて、主人は「自分自身が向かい合う、そのようなつもりで」息子を遣わしたのです。
 主人が、「事の重大さ(異変)」に気づくのは、もはや第一陣の召使いがぼろぼろにされて帰ってきたときのことで十分だったでしょう。そして、ただ、反逆の農夫らを一掃し、葡萄酒の収穫を徹底的に回収するためならば、兵隊を雇い入れ、武装して葡萄園に乗り込んでいけば良かったでしょう。しかし、主人はそうしなかった。何故でしょう。
そうです。もともと、主人は、「自分のために」「葡萄酒のために」、葡萄園をつくったのではなく、「農夫たちの人生のために」葡萄園をつくったからでした。
 主人は、全てを準備したのです。葡萄園を整備したのです。「土地は貸してやる。自分たちの手で開墾して見ろ。ただし収穫の時期には、きちんと年貢を納めてもらうよ」と、そんな強欲な地主ではないのです。開墾から、植樹から、設備の設置まで、その全てを主人自らがおこない、そこで働きそこで生きるならば収穫の恵みに与ることができるようにして、そして、すっかり農夫たちを信頼して、その全部を託して、自分はまた自分の場所に帰っていったのです。時が来たとき、主人は、その分け前に与ろうと考えただけです。その収穫を年貢のように回収しようとしたのではありません。その葡萄園の実りを喜び、農夫たちと一緒に喜びを分け合いたいと願ったのです。主人がそのときに受けたかった喜びは、農夫たちが初の収穫を手にして、こうして雇われ収穫に与って生きることができるようになった、その事実を本当に喜んで、活き活きとしている。そんな彼らの姿を見たかったからです。それを喜びたかったのです。
 (繰り返しますが)主人が自分のために、農夫たちに葡萄園をつくらせたのではないのです。逆なんです。主人が葡萄園をつくって、農夫たちの喜びに満ちた人生を造っていこうとしたのです。そして、だからこそ、主人は農夫たちのことを心配し、農夫たちとやり直したかったのです。結びつき続けたかったです。できれば、これからも農夫たちと交わりたいのです。これからも農夫たちと一緒に働きたいのです。だから!! だから、一人息子を遣わすのです。

3)神様の目的は
 わたしたちの神様は、わたしたち人間を通して、何かご自身(神様自身)にとって有益なものを生み出すように期待しているのではありません。神様は、わたしたちという人間そのものを愛しておられるのです。神様は、私たちに、「ちゃんと良いぶどう酒を絞り出せ。しっかりと良いぶどう酒をつくれ」とおっしゃっているのではないのです。働くこと、生きることを喜ぶことができる「嬉しい農夫になりなさい」「喜びの農夫になりなさい」とおっしゃってくださっているのです。神様の命の創造の目的は、私たちが神様の備えてくださった世界で、私たち自身が満たされ、感謝をおぼえ、その感謝を神様と共に分かち合い、守られ続けて生きる。神様と私、主人と農夫の交わりと分かち合い、その喜びに満ちあふれた関係を目的としてくださっています。
私たちは、神様が備えて下さったものを、神様がしっかりと整えてくださったものを、託され預けられて、人として生きているのです。
 しかし、私たち人間は、そのことをすぐに忘れてしまうのです。忘れてしまうというよりも、その預けられたものを横取りし、それがあたかも最初から自分のものであり、いつまでも自分のものであると、そうしたいのです。そのように迷い、そのように悪巧みはじめるとき、感謝が生まれるはずの葡萄園は、策略と暴力の広場と変わってしまいます。初めのうちは、主人に対して結託して刃向かっていた農夫たちは、やがては、お互いを傷つけあい、だまし合い、奪い合う間柄になっていくでしょう。それが、人間の現実です。人間の歴史の実相なのです。神様から預けられたいのち、預けられた人生を、全て握りしめてしまおうとすることは、実に苦しみの始まりなのです。
 しかし、どんなにあがいても、わたしたちは主人ではないのです。どんなに人間同士が結託しても私たちが神になることはできないのです。どんなに暴れてみても、抗ってみても、そして主人の接近を拒んでみても、葡萄園は主人のものなのです。私たち人間が生きているその事実、それを見つめるならば、その命のために与えられている環境は、自然界の不思議な姿にしても、自分自身の肉体そのものの存在の不思議にしても、神から来たのであり、神に属したままなのであり、そして神に帰るしかないものなのです。
 ですから、私たち「託された農夫」の幸せとは、「託されたという感謝」から離れないことにあります。主人が、私の存在を喜んでいてくださり、私の働きを喜んでいてくださり、たとい私がたくさん葡萄汁を絞り出すことができた時にも、逆に、思うように収穫を得ることができなかった時にも、私が、その農園で農夫として生かされていることを感謝して暮らしているならば、そのことそのものを喜んでいてくださる主人がおられる、それを忘れないことです。これが人間の幸いなのです。しかし、もし農夫が、農夫としての素朴な喜びから離れたときに、農夫はとたんに苦悩の淵に陥り、そして自らを破壊してしまうのです。

4)「おとうさん、赦してあげてください」
 イエス様がこのたとえ話を話された時、それはすでに、神の一人子がこの世に出向いてきているその時でした。主人が一人子を葡萄園に遣わした、まさに、その出来事そのものでした。そして主人の子、神の子は、農夫たちを憐れみ、またただし、招き、主人の愛と招きを受け取るようにとのべ伝えます。けれども、人々(この世)は、その一人子をあざけり、憎み、捕らえ、外に引きづりだし、集団リンチを加え、十字架に張り付けて殺すのです。そして、「お前が本当に主人の息子なら、自分を救って見ろ、そしておれたちのために、もっと良い贈り物を持ってきてみろ、そうしたら信じてやる」と罵ったのです。
 貧しい者たちが虐げられ、病人は放り出され、偉い人々がいばり、剣と槍とがものを言う、利権の前に真理はねじ曲げられ、神の子が処刑される、それが、主人が造ったはずの、あの素晴らしい葡萄園の「なれの果て」でした。それがゴルゴタの風景なのです。その暴虐無人な農夫たちの真ん中で、そして荒らされてしまった葡萄園の真ん中で、主人の一人息子はこう叫ぶのです。絶命しながらこう叫ぶのです。「お父さん、この人たちをお赦しください。自分が何を言っているのか、自分が何をしているのかわからないのです。お父さん、赦してあげてください」。
 この一人子の絶命の祈り。ここまでして、主人は農夫たちの「立ち帰り」を求めたのです。御子キリストの絶命しながらのとりなしと赦しの祈り。ここまでして、神様は、私たちを求めておられるのです。

5)血のしみ込んだ農園に生かされて
 「家造りらの捨てた石が、隅の頭石になった」。
 農夫たちが殺した主人の一人息子の、その引き裂かれたいのちが、新しい葡萄園の土となります。そして、御子イエス・キリストが新しい土となっている「新しい農園」に、私たちは招かれています。私たちは、赦され、招かれ、その上、あらためて大きな賜物を託され、預けられて、「ここ」に生かされています。再び預けられた新しい農地には、遂に赦しまでもが加えられました。
 私たちの人生、私たちが踏みしめているこの地面には、一人子キリストの血がしみこんでいます。愛と交わりのために流された血が・・・。私が、信頼され、預けてさえしてくださった農夫として、ここで、この自分を喜んで生きるようになるために! それだけではなく、農夫と農夫が共に分かち合って、いつまでも共に生きることができるようになるために! そのために流された一人子の血が、私たちの足下には、しみこんでいます。
 私たちの人生には、葡萄の木が植えられています。必要な時に実りをもたらす葡萄の木が。私たちの周りには垣根がめぐらされ守られています。そして、私たちは、値なき者にもかかわらず神から信じられています。そしてたっぷりと預けられています。
命を預けられています。人生を預けられています。世界を預けられ、環境を預けられ、仕事を預けられ、家族を預けられています。それを取り囲むようにして、キリストの赦しととりなしさえもが、垣根となって打ち立てられています。憐れみと招きの世界なのです。私たちが生きるのは、憐れみと招きの世界、神の葡萄園なのです。葡萄園に生きることができる。何と、ありがたいことではありませんか。

                                                             了


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