サウルとダビデ 憎しみと寛容
サムエル記上26:6−25
1)ここまでのあらすじ
ゴリアトを倒し、ペリシテとの戦いに決定的な勝機をもたらしたダビデは、歓喜をもってイスラエルに迎えられた。
「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」子どもたちまでもが、この賛歌を歌ってダビデを讃えた。当初はダビデを誇らしく思い、側近に招いたサウル王の心に嫉妬と憎悪がしのびこんだ。サウルはふたたび癇癪と凶暴を纏っていった。
サウルは、ダビデを亡き者にするために激戦地を選んでは、繰り返しダビデに出兵命令を下した。しかし主の霊がダビデを守り、その都度、ダビデは戦果を手に凱旋するのだった。高まり続けるダビデ人気。ついにサウルは自分の側近を使ってダビデ暗殺を画策するようになった。
ダビデはサウルの元を離れ、逃げた。サウルを憎むことができなかったからである。サウルの息子ヨナタンは、荒れ狂う父と、愛するダビデへの狭間で苦しみながらも、ダビデと密かに通じ、逃亡を助け、また、父親に対しては執り成し続けたのだった。
ダビデはヨナタンだけでなく何人もの理解者にかくまわれ、助けられながら逃避行を続けていく。そんなダビデのもとに、イスラエルの各地から、彼を慕う強者たちが集まってきた。日増しに人は増え、やがてその数は600人にも膨れあがっていった。
サウルのダビデへの敵意は執拗に燃え、もう後戻りができなくなっていた。彼は精鋭3000人を率いてダビデ討伐に出発し、ダビデたちが潜んでいるジフの荒れ野に接近した。「なんとか、いくさになることを回避できないのだろうか」と、ダビデは苦しんだ。
ダビデに従った者たちは誰も戦闘能力が高かった。やすやすと、敵に気づかれることなく、サウルの本陣の寝所にダビデを案内してみせた。「今、ここで、サウルを殺しましょう。あなたの労苦は今夜終わります。そしてあなたこそ王となるのです。」
しかし、ダビデは首を横に振るのだった。「それを決めるのも、なさるのも主である。サウルも一度は油注がれた人だ。私が、彼を殺すことは、たとえできても、してはならないことなのだ。」
その夜、ダビデは、サウルの枕元の水差しと槍とを持ち帰ることだけにとどめ、サウルの命を主に委ねたのであった。それはまた、自分の命と人生をも、主に委ねた夜であった。
以上、週報に掲載
2)葛藤の夜
ダビデの心は揺れていたと思います。ぎりぎりまで、どうするべきか、苦悩していたと思うのです。
サウルの憎しみを知ってからこれまでの間、ダビデは「どうしてこんなことになるのか」と運命を呪いながら、長い逃亡生活に身を横たえてきました。サウルに何度も何度も命を狙われる身の上。もう何年も、安らかな眠りにつけないできた自分。今回も、3000人の精鋭部隊を引き連れて自分を討伐しに、このジフの荒れ野まで追撃をしてきたサウル王。
彼は、側近のアビシャイと共に、月の光の中、崖をよじ登りました。そして闇夜をついて、サウル王が眠る本陣にたどり着きました。サウルを守るようにして多くの兵が取り囲んで寝ている、その隙間を塗って、忍び込むことに成功しました。
いま、自分を殺そうと執拗に追跡をしてきた恐ろしいサウルが、足下に眠っているのです。アビシャイが、ささやくのです。
「ダビデ様、千載一遇のチャンスが訪れました。神が、サウルの命を私たちに与えられたに違いありません。サウル王の横に彼の槍が立てられています。この槍で一突きにサウル王をしとめましょう。あなたが躊躇するなら、この私が、いま彼を突き殺してみせます。さあ、一思いにやりましょう。」
確かにアビシャイの言うとおりです。いま、ここで、一思いにサウルを殺すなら、長年自分を責め苛んできた元凶の元を断つことができる。しかし・・・。ダビデは、そこで苦悶したのではないでしょうか。ぎりぎりまで苦悩したのだと思います。
けれどもダビデは、そこで思いとどまりました。
「アビシャイ。殺してはならない。このサウル様も、主なる神さまがかつて油を注がれて、王に立てられた人だ。この人を立てたのも神。だから、この人を倒されるのも主なる神だ。主の油注がれた人に、わたしが手を下しては、やはり、ならないのだ。」
ダビデは、今や自分の手の中にあるサウルの命を、もう一度、神さまの手に返したのです。
私は、ここにサムエル記全般を通じた主題があるように思われます。
それは、「歴史を動かすのは主なる神であって、決して人間の手によるものではない」という主題です。
先週は、まだ少年だったダビデがペリシテの巨人ゴリアトを討ち取る場面を読みました。あの記事(サム17章)の中でもっとも輝いているのは、ダビデがゴリアトに向かい合ったときに語った言葉だと思います。
「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かってくるが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の何よって立ち向かう。」
ダビデはそういって、羊飼いのままの出で立ちで、丸腰のままゴリアトに向かっていきました。おおよそ武器とは言えぬ、一粒の石のつぶてをもって、神はゴリアトを倒されたのでした。
今のダビデにとって、サウル王はゴリアト以上の恐怖であり、彼のつまづきの石、彼の前に立ちはだかり続ける壁であります。その命を手中にできるところで、ダビデは再び神の名によって、全てを神に返すところに立ち返ったのでした。繰り返します。「歴史を動かすのは、主なる神であって、決して人間の手によるものではない。」これが、サムエル記全体の主題なのです。
このようにして、この夜、ダビデは、白黒をはっきりとつけるべきかも知れない場面で、人間の手で、白黒をつけないで、神の手に委ねるという第三の道を選んだというのです。
それは同時に、サウルの命を神に委ねたのと同時に、自分の運命をもやはり神の手に委ねたダビデの信仰による選び取りの夜であったと言うことができます。
3)矛盾
皆様は「矛盾」という言葉をご存じだと思います。矛盾という言葉は、ご存じ「韓非子」に出てくる逸話です。
「どんな矛でも貫くことができない盾」と「いかなる盾をも貫くことができる矛」を二つ並べて売っている武器商人がいて、その前を通りかかった一人の人が、「この矛でその盾を突いたらどうなるのか?」と聞いたら、商人が絶句した、という話です。小学校の時に習って、なるほどと思って笑いました。けれども、この「矛盾」とは、ナンセンスでばからしい事を、ただばからしいと笑い飛ばす意図ではなく、むしろ、韓非子は、こうした白黒突かない、矛盾に満ちたことが、この世の、人間の世の、深い真実としてしばしば存在していることを語っているのだと思うのです。特に韓非子は、治世について、支配についての教科書の一巻として書かれたものです。武術、武道というものには、勝利して負けるということがあり、また敗北して勝つということがある。不思議ですが。また、人間の対人関係には、負けるわけにはいかない、さりとて勝ってしまうわけにもいかない、という局面があるのです。なんとももどかしいですが。
勝って失うものがあり、負けて得ることがある。矛と盾は、それぞれ攻めと守りの徴ですが、徹底的な攻めがただそれだけで勝敗を決するのでもなく、徹底的な守りがただそれだけで勝敗を決するのでもない。何物をも貫くことが出来る矛を持っていると人が言うとき、必ず同時的に、何事にも貫かれない盾がある、ということを言ってしまっていることになります。何事にも貫かれない盾を持っていると言ってしまえば、何物をも貫くことができる矛を持っていると言ってしまっていることなのです。そこには、不思議な、矛盾が存在する。白黒はっきりしないのだけれども、その矛盾を知り、その不思議さを知ることの大切さを、勝ち負けを人間が握りしめてしまうことがほんとうはできないのではないかという問題を、この「矛盾」という逸話は教えているのではないか、と思うのです。繰り返しますが、矛盾はだめなのではなく、矛盾こそが多くの場合真実である。その矛盾の狭間をいかに生きるか、矛盾の間をいかに受けとめるか、です。
これを信仰の決断の問題に置き換えてみると、人間が白黒をはっきりさせるのではなく、ダビデのように、第三の道(神の手に委ねる道)を選び取るという生き方がある、という
ことです。
イエスも、「右のほっぺたを打たれたら、左のほっぺたを向けてやりなさい」と言います。「復讐は神の手に委ねなさい」ともおっしゃる。それは、まさに、神の手に私と相手を委ねよ、というのです。ここで勝つことが勝ちではなく、ここで負けることが負けではない。むしろ、ここで勝とうとするときに人間は負けているのかもしれない、のです。
4)和解
理屈っぽい話になりました。ダビデの物語にもどりましょう。
ダビデは、その手でサウルをしとめることを止めます。ただし、サウルを説得するための証拠として、眠っていたサウルの傍らに突き刺してあった槍と、枕元の水筒を持って帰るのです。
そして、もう一つの山の頂に立って、サウルの陣地に向かって呼ばわるのです。サウルの側近で、イスラエル一の武将として知られるアブネルの名前を呼んで。
「アブネルよ。お前たちは一晩何をしていたのだ。王を殺すための侵入者が、お前たちの真ん中まで立ち入っていたことに気がつかなかった。お前たちは、主が油を注がれた王を守ることができなかったのだ」と。
その呼び声がダビデの声だと真っ先に気づいたのはサウル王でありました。「その声はダビデか」と問い返す王にダビデは、自分にはあなたへの殺意が無いこと、そして、あなたがわたしを憎むことを自分はほんとうに悲しんできたこと、を訴えるのです。ダビデは言います。「今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように。」
サウルはこの時、ほんとうに討たれてしまったのです。自分を殺すことができたのに、殺さなかった。そしてダビデは、その全てを主の手に委ねた、ということを。
サウルは悟るのです。ダビデの神に対する信頼を。そして神に信頼して生きることができなかった自分を神が捨てられるのは当然だったということを。そう、自分は、神に見捨てられたと神を恨み、疑心暗鬼が自分を支配してきたが、そうではなかった。私自身が、神に背き、私自身が神を退け、私自身が神に頼む生き方を忘れてきたのだ。
イスラエルをまことに導くものは、主に拠り頼むもの。イスラエルの王としてほんとうにふさわしいのは、この男、ダビデである。
サウルは、まさにこのことが腑に落ちたのでした。「わが子よ。お前に祝福があるように。お前は活躍し、また、必ず成功する。」
サウルは、ダビデに祝福の言葉を残して、都に帰って行ったのでした。
この物語は、追いつめられたダビデが、その劣性をはね除けて逆転したという物語ではありません。そうではなく、一つの和解の物語です。油注がれた者と油注がれた者とが、主の御名によってそれぞれ退き、神の手に自らを委ねた、共に神に拠り頼むことへと導かれたという和解の物語です。もちろん、ふたりはこの先、二度と顔を合わせることはありません。この後、二人で一緒に戦った、というのではない。しかし和解の本質とは、それぞれが神の手に戻されるということです。ダビデとサウル、サウルとダビデ。この両者が、雌雄を決して剣を交わすことがなかったこと、ここにサムエル記の極めて重要な証言が残されていると言って良いでしょう。
5)十字架しか、ない
「矛盾」の話にもう一度戻ります。
わたしたちが仰ぎ見る十字架のイエス。彼は、矛盾の真ん中で苦しみ、矛盾の真ん中で祈ったのです。
神は正義なる方です。神が徹底的に義なる方であるならば、この世の罪は罰せられ、この世の罪人は全て裁かれ抜かれなければなりません。そして、誰がその裁きから逃れることができましょうか。
神はしかし愛なる方です。神が徹底的に愛の方であるならば、全ての罪人は赦されるべきです。しかし、それでは神の義はどうなるのでしょうか。
十字架は、ただの愛ではありません。神の義による裁きがあの十字架の苦しみです。しかし、十字架は同時に、私たちの赦しの愛に満ちています。私たちの裁きの場に、神ご自身と言っても良い・神の一人子が張り付けられ、そこで私たちの罪はあがなわれ、そこで罪人たる私たちは赦されている。
この矛でこの盾を突いたらどうなるのか? 神の義で神の愛を突いたらどうなるのかという問いなのです。私たちが赦されるために、神はその一人子を十字架におかけになった。裁く場面で赦すために、愛する場面で神の義を明確にするために、神は一人子を十字架に掛けられたのです。それしか、無かったのです。
私たちが赦される。そこには、苦悩する神がいます。神がそんな思いまでしてようやく赦されて生きるのが、私たちなのです。そのキリストを身に帯びて生きる。
私たちは、どうしても目先の白黒をつけようとする、この人間世界の中で、神の義と神の愛を祈って生きます。そのためには、最終的に、すべてを神に帰していく信仰で、生きていくしかないのです。
私があなたの命を大切にしたようにし、主もわたしの命を大切にしてくださいますように。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
これが、わたしたちの祈り。これがわたしたちの生き方なのです。
了
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