メッセージ : イエスの御名によって一つ
【イエスの御名によって一つ】使徒言行録4:32−5:6
結局のところ、キリスト者のあらゆる行為をキリスト者の行為たらしめるものは「イエスの御名によって」為すかどうかであろう。楽しいから集まる。好きだからやる。ためになるから学ぶ。理に適っているから認める。責任があるから担う。必要だから献げる。それならば、世の中の誰もがやっていることだ。
しかしキリスト者は「イエスの御名によって」生きる。イエスの御名によって楽しくなくても集まり、嫌いなことをやる。自分の思いとは違うことでもイエスの御名によって受け止めるし、迫害する者のために祈る。私たちが、祈りの最後に必ず「主イエスの御名によって、アーメン」と祈るのは、あらゆる人間的な動機や感情をいったん手放して、ただ主の御心の成就を拝するからだ。
初代教会が、こんなに一つ思いになって集まり、必要を満たしあい、過不足なく生きていたことを、人間的な思いやりの問題や、人々が受けた感動(や感情)の問題にしてしまうのでなく、「主イエスの御名によって生きる」と決断した人々の信仰の問題として受け止めていくべきではないだろうか。
●3月18日 週報巻頭言 吉高 叶
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