2012.2.26
主がお入り用なのです
ルカ福音書19:28−40
イエス様と弟子たちは、ガリラヤからの旅を続け、ついにエルサレムに入場しようとしています。エルサレムに入場するとは、「いよいよ目的の観光地に着きました」というようなものではありません。日本の戦国時代風に言いますと、「上洛する」、上杉謙信が上洛を断念したとか、武田信玄が上洛しようとしたとか、織田信長公ついに上洛!とか、ようするに「天下人」として名を示すことを意味しています。
ルカ19:11に次のように様子が記されています。
エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
弟子たちや、イエスを取り巻いていた人々は、イエス様がまもなく、エルサレムに上られ、この不思議な力となみなみならない権威ある言葉とで、ローマ支配を払拭し、神の国、つまりはユダヤの独立新国家を建て上げられることを信じていたのです。1000年前のダビデ王時代に、独立統一民族国家として繁栄をしたっきり、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、マケドニア、そしてローマという列強大国の植民地として甘んじてきながら、不屈の精神と律法に基づく信仰習慣によってかろうじてユダヤ選民であることを守ってきたユダヤ人たち。だからこそ、いつかメシアがあらわれて、こうした強国の属国状態からユダヤを解放し、神の民の国、ダビデ王国の再興、すなわち神の国の建設を成し遂げられる日がくる、このことを夢見てきたわけです。そしてナザレのイエスの登場。多くの民は、この不思議な力のイエスに「その人だ」という期待をかけていたのです。
そんな「その人」がいよいよエルサレムに入られる日が迫っています。弟子たちも、気合いの入った民衆たちも、みんなだんだんテンションが高くなってきているのです。
エルサレムの郊外にオリーブ山があります。丘のような山です。この山を越えるといよいよエルサレムの城壁です。この山の麓のベトファゲ村に近づいたとき、主イエスは二人の弟子を先に遣わせて、仔ろばを用意しておくように命じられました。そうです。イエス様は、その仔ろばに乗ってエルサレムに入場なさろうとしています。一世一代の「上洛」の晴れ舞台、人々に自分のリーダーとしての風格と威厳を示すためになら、もっとふさわしい舞台装置があったでしょう。実際、これまでエルサレムに乗り込んできた代々のローマ総督たちは、自分の威厳を誇示するために、美しくみごとな軍馬にまたがったり、漆黒の馬四頭つなぎの戦車に乗ったりして入場したのです。
けれどイエス様が選ばれたのは、仔ろばでした。威厳の印ではありません。戦いや力の印ではありません。君臨の印ではありません。貧しさの印です。庶民の印。そして労働の印、仕えて生きる奉仕者の印。それが仔ろばでありました。主イエスは、そのような仔ろばをこそ、「主がお入り用なのです」と言って借り受けておくように弟子たちに命じられたのでした。きっと弟子たちの心の中に、意外な気持ちが残ったのではないでしょうか。「先生は不思議なものを必要となさるのだなあ。なぜそんなものを」と・・・。
イエス様は、弟子たちが借り受けてきた仔ろばにまたがります。鞍も何もありません。弟子たちは思わず自分たちの服を掛けてイエス様に座ってもらいました。偉いローマ軍人さんたちが入場するときは、いつも行進の道に赤い絨毯が敷かれます。一緒にエルサレムを目指していた人々は、「せめても」と自分たちの上着を道に敷いたのです。この部分、人々の、主イエスへの尊敬の行動として読むのが普通なのかもしれませんが、弟子たちや、期待してついてきた人々の、「少しでも威厳を示したい気持ち、飾りたい気持ち」があらわれてしまった部分だとも読めるのではないでしょうか。
オリーブ山の坂を下るとエルサレムの門です。弟子たちは、極度の興奮状態に陥ります。37節にありますように、「弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を讃美し始めた」のです。イエス様の人間の力を超えた奇跡の数々を今思い浮かべています。それを重ね合わせています。そしてエルサレムでどんな力を発揮されるのかぞくぞくしています。この新しい王イエスと並んで自分たちが都で栄光を受ける時が間近に迫った・・・弟子たちは興奮の絶頂にあるのです。この興奮は、相当数の民衆にもすでに伝播していたものでした。ルカによる福音書以上に、マタイやマルコ福音書の方が、たくさんの民衆が熱狂的にイエス一団を迎え入れたことが書かれています(時間が許されるならクラスの中で並行記事も読んでおかれると良いでしょう)。
そうした中、仔ろばを所望し、その背にまたがってエルサレムに入っていったイエス様の目は何を見つめていたのでしょう。イエス様はその興奮と熱狂の中で何を想っておられたのでしょう。
弟子たちのこのときの興奮は、やがて水を浴びせられていきます。群衆の熱狂は、わずか数日後には罵声に変わります。誤解に基づいた興奮、薄っぺらい熱狂でした。だとしても、ファリサイ派の人々にとっては、そうした人気はねたましいことでした。もしかしたらこの騒動にローマ当局が軍事介入してくることを恐れたのかもしれません。
「騒がないようにして欲しい。この熱を沈めて欲しい。」
ファリサイ派の人々はイエスにそう言うのです。
しかし、その時のイエス様の言葉が印象的です。
「もし、この人たちが黙れば、石が叫び出す」。
イエス様は、弟子たちの興奮が誤解に基づくものだとわかっています。群衆が熱狂するのも、奇跡を求めているからであり、それもこれも、その貧しさと惨めさの中からの叫びであり、わめきであることをおわかりになってます。さらに、自分に神様が差し向けられる杯は、今、この人たちが熱烈に信じ、盛り上がっている君臨の姿ではなく、期待はずれの厳しいものになることもイエス様にはわかっていたでしょう。けれども、弟子たちの理解がたとえ間違っていたとしても、また群衆の言葉がどんなに身勝手なものであったとしても、そのような彼らは、その疲れの中から、貧しさの中から、病の淵の中から、なんらかの解放を求めているのもまた確かなことです。彼ら群衆が、「救い」というものを、新しい王の出現に夢を託すようにして求めてしまうこともまた、無理からぬ事であります。彼ら群衆がうめいている事実、さまよっている事実、絶望しかかっている事実、それは、「彼らが黙れば石が叫び出す」ほどに、真実・事実であり、彼らはもう煮詰まっているのです。その分、発火しやすい。
こうした苦しみや貧しさを背景とした熱狂は、薄っぺらい分、残酷でもあります。すぐに、「十字架につけよ!」という声に変わってしまいますし、イエス様が逮捕されたとたん逃げ出してしまうような興奮です。でも、それが人間の事実であります。人間の熱というものもまたそういうものであり、そうした熱にうなされていくしかないところで虐げられ貶められている人々が、その魂を静めることかなわず、解放されることかなわず、いかんともしがたい魂で生きてしまっている。そのことの中に、人間の悲哀があり、そこから出てくる身勝手な信仰や身勝手な熱狂こそがまた人間の深い罪なのではないでしょうか。
こうした人間の薄っぺらいけれども嘘っぱちとも言えない熱狂に、このときイエス様は、ご自身の身を委ねたのだと、わたしは思います。それは、悲しいまでの人間の弱さと罪のなせる熱情によってやがては捨てられていく道、十字架の道に、イエス様は自らを差し出したのだと言うことでもあります。しかし、民衆の群衆の、その悲しいまでの弱さと罪を、イエスは決して利用しなかった。それを憐れみ、それを味わい、それを担い、そしてその罪をその身に引き受けたのです。そして、悲しい熱狂が求めた姿ではない「十字架の死」をもって、イエス様は神の愛を貫かれ、罪の赦しと救いを示されたのでした。
エルサレムの門をくぐる、興奮と熱狂の中で、イエス様が心の中に繰り返していた言葉は、「主がお入り用なのです」という言葉だったのではないでしょうか。仔ろばを借り受けるときに弟子たちに語らせた「主がお入り用なのです」という言葉を、実は、主なる神さまが、その御心を成し遂げるために、自分の荊の道を必要とし、自分の苦難の死を必要としている。主イエスは、この城壁の中で苦しめられ、この城壁の外に連れ出されて十字架に掛けられること、その道を、「主がお入り用なのです」と、イエス様は心に刻みつけておられたのではないでしょうか。
「主がお入り用なのです。」
主は、いったい、この世の何をお入り用となさるのでしょうか。
たとえば、仔ろばをお入り用となされた主イエスさまが、わたしたちのこの時代、果たしてどのようなものをお入り用となさるのでしょうか。これが一つの祈り求めです。
「主がお入り用ならば」
わたしは、自分自身に、この言葉をどれほど重ねて生きているでしょうか。
わたしは、自分に嫌なことでも、自分がマイナスを背負ってしまうことでも、自分が担うとするなら少々面倒くさいことになると思われることでも、「主がお入り用ならば」と、祈って生きているでしょうか。その葛藤と苦しみと祈りを、あまりにも早く、回避して生きてはいないでしょうか。
「主がお入り用ですから、ほどきます。」
仔ろばの綱をほどこうとしたときに、どうしてその綱をほどくのかと訊かれます。そのとき、「主がお入り用なのです」と答えていくような、ある意味、世間の無理解とぶつかりながらも、主のお入り用を証しする生き方を、私たちはしてきているでしょうか。
悲しいまでもの弱さと罪を背負い、身勝手な要求と、浅はかな熱情で生きてしまっていた私たちのために、十字架に掛かり死なれたイエス様。そのことを「父なる神のお入り用のためなり」と受け止められた主イエスさまに、わたしたちは、どうお応えして生きていくべきでしょうか。
了
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