私たちの手。キリストの祈り。
ルカによる福音書9章10−17節
イエスの言葉に惹かれて大勢の人々が従ってきていました。成人男性だけ数えても、5000人以上もの人々がです。大勢の人々が、心に触れる言葉を求めていたのです。先週は「人々の慰められることを祈り求めていたシメオン」の話しをしましたが、まさに、人生に意味を示してくれる言葉を、不条理な人生に対する慰めの徴を、たくさんの人々が求めていたのでした。そして、そんな多くの人々がナザレのイエスの言葉と業に引き寄せられ、集まってきていたのでした。村里から離れたところに、イエスの言葉を囲む大きな大きな輪ができたのです。
イエス様の語られる言葉はどんどん深まっていきます。人々は帰ろうとしない。彼の言葉の豊かさに心が根を下ろし、立ち去るべき時を忘れたのです。しかし、やはり、問題が生じて来ました。日が暮れはじめ、群衆は空腹をおぼえ始めます。弟子たちの心は穏やかではなくなっていきました。「このままいけば・・・」そんな心配、嫌な予感が弟子たちの心をいっぱいにしはじめたのです。
きっと、弟子たち同士の中でひそひそと耳打ち話が始まったのではないでしょうか。
「おい、すっごい盛り上がってるけど、先生いつまで話続けられるんだろう。先生は話しに夢中で気づいておられないのではないか。食事のことを。もうそろそろ、お開きにしないと大変なことになるんじゃないか」「誰か、先生に進言した方がいいんじゃないか」。 きっとそんなひそひそ話をして、弟子たちの何人かが、イエス様のところに近寄りました。そして言ったのです。
「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。」9:12
ところが、イエスの答えは意外や意外、「えっ」と耳を疑う言葉だったのでした。
「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」(口語訳:あなたがたの手で食物をやりなさい)
一瞬耳を疑いましたが、主は確かにそのようにおっしゃいました。そう来るとは思ってもいませんでした。「先生、何を言い出すんですか!」
「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」9:13
そして、そんなお金はどこにもありませんでした。たとえお金があったとしても、それだけの食べ物をいきなり調達できるヨーカドーのような店はどこにもあるはずがありません。どう試算をしても、たとえ逆立ちをしても、無理なことは明らかでした。
「無い」「できない」「無理」。それがどう考えても、誰が考えてもわかる事実でした。彼らが持ち出した証拠は、五つのパンと二匹の魚。それは、「無理」を証明するために彼からが示した証拠でした。
だから弟子たちは、イエス様からそう言われても、もうあまりにもはっきりしている結論を心の中で繰り返したにちがいありません。「イエス様。潮時です。もう解散させてください」。
5000人以上の人々をまかなう。今、確かに大切だとはわかっていても、こうした大きな課題に直面するときには、自分の力量と支払わねばならない労苦についての「算段」が前に立ちます。その大きな課題に踏み込んでいくことに対する、とてつもない不安が押しよせます。その時、私たちは誰しもが、「だから、そうなる前に、やめときましょう」と考えます。人間的な算段、経験的な判断からは、「無理」という言葉しか見つかりません。「不可能」という答えしか見えてきません。
課題に手をつける、問題に手を触れる、テーマに手を尽くす、でもその前に「無理」という答えが身体を金縛りにします。出るのは「ため息」ばかりです。
主イエス様は、初めから、それと勝負しておられたのでした。
「あなたたちの手で食べ物を与えなさい。」
主は、弟子たちの手がそこに触れていこうとすること、弟子たちの心がそのことに向けられていくこと、弟子たちの奉仕が、そこで尽くされていくことの、大切さを見つめておられたのです。
「人々が食事を取れるように50人ずつの陣形をつくりなさい」
途方に暮れる弟子たちの手から、五つのパンと二匹の魚を受け取られると、イエス様は天を仰ぎ、神さまを讃美し、祈り、そのパンを割き、弟子たちに分け与えられ始めたのです。自分の手にそのパンを渡された弟子たちは、グループに分けられた人々のところに出ていって、今度は自分の手で、主がなさったようにそのパンを裂き、渡していったのです。
するとどうでしょう。その手から分けられていくパンは無くなってしまわなかったのです。主イエスによって祝福されたその食べ物は、分けられ続けました。分けても分けても、まだ分けられたのでした。不思議でした。分けたら減るのではなく、分けたら増えたのです。分かちあったら、届き続けたのです。人の手から人の手へとずっと届いていったのです。
それは、分け合う前には決して計算できないことでした。分け合い始める前には、ただの五つのパンでした。しかし、天の養いを仰ぎ信じ、どうか私たちを共々に満たしてくださいという祈りがそこに注がれて、養いの天に支えられて、人々が分け合い始めたときに、それは分かたれ続けたのでした。計算を越え、現実を越えた出来事はそのようにして起こったのです。
その不思議な出来事を自分の手で触れていった弟子たち。彼らの手に、割き続けた感触、分け続けた実感が確かに残されたのでした。実際、彼らは食べきれなかったパンの残りを籠に拾い集めました。12の籠です。12人の弟子たちがひとりひとり集めて回った。そして、みんなが満たされた証、そしてまだ、この恵みが残っているという証(更なる広がりの可能性)を、自分の籠に一杯入れられたというのです。その籠の重さが、確かな実感として、弟子たちの腕に、その肩に残されたのでした。
この経験は、やがて弟子たちが初代教会を形成していくときの、あるいは世界伝道に出発していくときの確かな実感となり拠り所となっていったと思います。「福音」は分けなければ増えない。「福音」は、人々のところに出ていって、「私が・この手で」割き与えなければ広がらないのだ、ということを。「天の恵みは分け合うもの。」「天の恵みは尽きないもの。」「天の恵みによって生きる私たちは、集まれば集まるほど満たされるのだと。」
弟子たちの打ちのめされたような「ため息」は、いまや驚きと歓喜へと変えられていました。
わたしたちは、(この年頭にあって)こうした驚くべき出来事が、私たちの人生にも起こることであり、私たちの教会形成や伝道にも起こることであり、社会や世界の中で引き起こされる出来事なのだとまっすぐに信じたいと思います。そして「信じるべきでないものを排する」ことを学びたいと思います。
人間的な算段が、ほんとうに正しいのだろうか。
私たち一人ひとりが小さな存在でしかなく、その持ち物は少なく、力量に貧しい者であるという事実が、だから大きな課題を動かすことができないと信じ結論づけてしまうのは正しいのだろうか。逆に、いくらでもお金があれば、たくさんの人手があるならば、どんな大きな課題でも片づけられる、と信じてしまうことは、本当なのだろうか。人間が考える「できる」とか「無理」とか「大丈夫」とか「不可能」。それを信じてしまって、手を触れる前に決めてしまう硬直と傲慢から、私たちは踏み出していかなければならないのではないでしょうか。
津波で壊滅的な打撃を受けた三陸海岸の漁港の漁師さんたちが、一人また一人と立ち上がっておられます。もう一度、ここで漁をしたい。その願いを捨てられない人たちが声を掛け合っているのです。その漁師さんたちも、みんな船そのものを失っています。港には、氷のための倉庫も、加工工場も、取引市場も何にもありません。おまけに、港に続く海の底には、津波に呑まれた船の残骸、家や車などの瓦礫が沈んでいます。そんな状態では、船がすぐに座礁して、漁に出ることも戻ってくることもできません。途方に暮れる状況です。ゼロからではなくて、大きなマイナスからの出発です。でも、漁港の再建と人生の再生のために一人ひとりの漁師の心と身体が立ち上がっている漁港があるそうです。
塩をかぶった農地は、再生させるのがほんとうに大変なのだそうです。塩がまじってしまったのは土だけではありません。土だけなら、根気よく塩抜きをし、入れ替えもしていきけます。けれども深刻なのは、地下水が塩水になってしまったのだそうです。いったいどうするのか。それでも農家の人々の中には、土地を捨てないで、また土をよみがえらせるために取り組み始めた人々がたくさんいらっしゃるそうです。
放射能に汚染された土地の「除染」に必死で取り組んでいる研究者が、先日ラジオでこんなことを言っていました。
「土には包容力がある。土には再生力がある。そして土には教育力がある。必ず、土は生き返る。そして土に生かされる日が、また来る。」
一人の人の心が立ち上がる。一人の人の手が動き始める。その一人ひとりの手と、自然の再生の力が、組み合わさってよみがえる。もう無理だと思っていた場所が、一つ一つ、またよみがえっていく。
「アフリカの砂漠を緑のオアシスにしたい。」そういって、苗を植え続けている人がいる。砂漠はたった一日で、姿を変えます。何日もかかって苗を植えた場所が、たった一晩の砂嵐で、また何もなかったかのような砂漠に戻っている。それでも苗を植えている財団があります。
ルワンダで虐殺被害にあった人々は80万人とも100万人とも言われます。その生き残った人々の心の中に、人間に対する絶望と恐怖は癒せないほどに焼き付いてしまっているでしょう。「ツチ」とか「フツ」といった民族の壁は根強くあって、また何かの際に頭をもたげることがあることを知っているでしょう。しかし、そこで、その互いの壁と傷とを乗り越えようと、和解のために、償いのために、一人の犠牲者の家族のための家造りに取り組んでいる働きがあります。
どの問題にしても、それらの膨大な、とてつもなく大きな仕事のために、いったいどれくらい予算がかかるのか。全体の解決を見渡せば、そのどれもが、100億円でも200億円でもまだ足らないと思える。だれが携われるのか。行政当局ならできるのか。国家ならできるのか。国際機関ならできるのか。
そうではありません。一人の信仰や信念が立ちあがらなければ、一人の希望がそこに輝かなければ、一人の決意がそこで固まらなければ、一人の手が動き始めなければ、おそらく奇跡をその腕に抱くことは誰にもできないでしょう。
イエス様は、私たちに「あなたがたの手で、それをし始めてみなさい」とおっしゃいます。と同時に、イエス様は、傍らで私たちの持ち物、私たちという賜物に手をおいて、天を仰ぎ、祈りを捧げてくださっているのです。
何事も、触れる前にたじろぎ、手を伸ばす前に算段するなら、(何事も!)私たちの身のたけを大きく上回っているようにしか思えないものです。しかし、私たちには、ほんとうに何も無いのでしょうか。あるではありませんか。5つのパンと二匹の魚が。わたし自身が受けた恵み、わたし自身がイエス様を信じているというこの信仰が。そして自分自身の手が。あるではありませんか。イエス・キリストの祈りと祝福が。
大きな課題、大きなテーマ、その全ての背後に人々の困窮と喘ぎがありましょう。それを憶えつつも、私の手から割き分け与えられていくのは、隣の一人、まず一人への分かちあい。でも、それは広がり、伝わり、大きな恵みとされる時が訪れるのです。必ず、私たちは、この手で触れ、この手を動かして生きた、その「この手」に、いつか籠を抱えているでしょう。思いもしなかった喜びと、まだまだたくさんの人々に分け合うことのできる「恵み」のずっしりとした重みを感じながら、籠を抱えているでしょう。
了
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