本日のマタイによる福音書28章16節以下では、イエスが復活された後、11人の弟子たちが、かねてより指示されていた山に登った時のことが記されています。彼らは、そこで復活のイエスに出会い、ひれ伏して主を拝みました。しかし、疑う者もいたとあります。この記述は、初代教会の信徒の中にも主の復活をリアルに信じきれなかった人がいたことを示しています。
ここで主イエスが弟子たちにお命じになった言葉が、19節以下に記されています。すなわち、(1)「だから、あなたがたは行ってすべての民をわたしの弟子としなさい」(2)「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」の二つの言葉です。この二つは「イエスの大宣教命令」と呼ばれています。
キリスト者になるとは、洗礼を受けイエスの弟子となって、主がお語りになった教え(神の言葉)を実践するということです。すなわち、御言葉(みことば)の学びと訓練によって練達した働き人、主のしもべになるということです。本日はこの箇所から神の言葉に耳を傾けます。
●4月27日 週報巻頭言 牧師 木村一充
イエス・キリストが十字架につけられて息を引き取ったのは金曜日の午後3時頃のことでした。次の日は土曜日でユダヤの安息日になります。十字架上で刑死した犯罪人の遺体は、その日のうちに降ろす決まりになっていました。こうしてイエスの遺体は、アリマタヤのヨセフによって、彼の園の墓に納められました。
週の初めの日、マグダラのマリアがイエスの墓に行くと、墓を塞いでいた石が取り除けられ、わきに転がっているのを見ました。墓の中をのぞくと中は空っぽで、イエスの遺体がなくなっていたのです。そこに白い衣を着た天使が現れてマリアに言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。」「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」と。
イエスは死人のままで墓に留まるということをなさいませんでした。むしろ、墓を打ち破り、甦られて弟子たちの前に姿を現わされたのです。それは、かつてのような肉の体ではなく、霊の体による復活です。本日はパウロの手紙から、復活の意味について考えます。
●4月20日 イースター礼拝 週報巻頭言 牧師 木村一充
主イエスがゲッセマネの祈りを祈り終えられる頃、イエスを裏切ったユダが民の長老や律法学者が遣わした群衆を引き連れてゲッセマネの園にやってきました。彼らは剣や棍棒を手に携えてイエスを捕え、大祭司(カィヤファ)の家に連行してゆきます。マルコ、マタイの福音書によれば、そこには(真夜中であるにもかかわらず)最高法院の議員たち全員が集まり、イエスの裁判(訊問)が始まったことが記されています。
ペトロは、捕縛された主イエスの後に従い、そのまま大祭司の中庭に入ると、そこで焚火にあたっていました。すると、そこにいた数人の人から「この人も、あのイエスと一緒にいた」という告発の言葉を聞きます。3人目の告発者は、ペトロがガリラヤ訛りの言葉だったことから、「この人もあの男の仲間だ」と証言したのです。ペトロはこれを聞いて、「わたしはあの人のことを知らない」と、3度にわたってイエスを否認しました。本日はこの箇所から神の言葉を聞いてゆきます。
●4月13日 受難週主日礼拝 週報巻頭言 牧師 木村一充
イエスは、弟子たちと共に過越しの食事をお取りになった後、ゲツセマネと呼ばれる園に弟子たちを連れてお出かけになりました。そこは、エルサレムのすぐ近くにあるオリーブ山のふもとにあったオリーブの園で、過越しの祭りの時期には巡礼者たちが一夜を過ごす場所にもなったといいます。
そこにペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちを伴って行かれると、イエスは悲しみもだえ始められたと、聖書に書かれます。並行記事のあるルカによる福音書22章を見ると「汗が血の滴るように地面に落ちた」と書かれています。その祈りは次のようでした「父よ、できることならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いではなく御心のままに。」
ここで「杯」とは、自分の意思に反して自分に襲いかかってくる苦難や試練のことを指しています。わたしたちの人生でもあり得ることです。本日は、この箇所から響いてくるメッセージを、共に分かち合います。
●4月6日 週報巻頭言 牧師 木村一充
本日のマタイ福音書26章26節以下では、主イエスが十字架につけられる日の前夜に、弟子たちと取った最後の食事の席で起きた出来事が書かれています。この時の食事は、過越しの祭りに合わせ、ユダヤ人が自分たちの先祖がエジプトの地から逃れ、カナンの地に帰ってきた出エジプトの出来事を祝い、そのことを記念する過越しの食事でありました。ユダヤ人は、このとき小羊の肉、苦菜、酵母菌なしのパンとぶどう酒を、食材として食べました。
ところが、その食事の席でイエスは通常一家の家長がおこなう「パンを裂いて配る」という行為を行ったあと、「これはわたしのからだである」と語られました。さらに、ぶどう酒を飲む際に「これは、多くの人のために流されるわたしの血である」と語られます。食材であるパンとぶどう酒が、ご自身の体であり血であると言われたのです。この最後の晩餐の出来事を、わたしたちは「主の晩餐式」において追体験しています。本日は、ここから神のみ言葉に耳を傾けます。
●3月30日 週報巻頭言 牧師 木村一充