栗ヶ沢バプテスト教会発行
Vol. 14 2017年10月号
「『わたし』のもとに」
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。私が以前仕えていた教会にて、ずっとこの言葉を表看板に書いていました。ある時、一人の男性が訪ねてきて、でもその相談は実に深刻な内容で、結果的に「すみません、お助けできません」と言うしかなかったのです。するとその男性は「なんだ、看板に、『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。』と書いているのに、嘘っぱちだ!」と足から塵を払うように帰って行ってしまわれました。
その出来事を受け、私はこの言葉を看板に書くことに躊躇を覚えるようになりました。人を躓かせるぐらいなら最初から掲げない方が良い・・・そんな思いにもなりました。そんな経験、つまり他人の力ではどうしようも助けようがない事柄、折角教会に来られたのに、何も力になれないもどかしさ、その無力感にさいなまれました。その方との最後に交わした言葉「祈っています」という一言が、とても空しく感じられました。私は落ち込み考えました。「教会って何だろう? 祈りって何だろう・・・」と。
私たちが「この人なら話せる」と信頼を置ける人というのは、どういう人でしょうか。一人ひとりが抱える重荷を下すところ、それは一体誰の前に、いや、誰の前だから下せるでしょうか、今回はそのことを考えてみたいと思います。また、私たちが教会に来て、何に気付かされ、そして何を頂いて帰るのか、・・・このことについても一緒に考えてみたいと思います。有名な御言葉です。「神は、その( )をお与えになったほどに、世を愛された。( )を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。この( )に入る言葉は何でしょう。それは唯一無二なる答えです。今回の集会を通して、この答えを共に受け止めて頂けましたら幸いです。
吉田 真司 相模中央キリスト教会牧師
世界中の人々が『平和』を求めています。
理由はどうあれ、一度、戦争が始まれば、悲しく、痛ましい出来事が次々と起こり、多くの尊い命が失われます。だから、『平和』を壊してはいけないのです。
今、時代は混沌としています。私たちは『平和』を実現するために、どんな『平和の種』を蒔こうとしているのでしょうか。それは本当に『平和の実』を結ぶのでしょうか?
●牧師 山田 幸男