栗ヶ沢バプテスト教会発行
Vol. 15 2018年4月号
「新しいいのちに生きる」
皆さま、こんにちは。はじめまして。
私は、この4月より栗ヶ沢バプテスト教会の牧師として働かせていただくことになりました村上千代と申します。これからこの地域の方々とどのような出会いがあるのかを今からたのしみにしているところです。よろしくお願いいたします。
2018年は、年度の始まりの4月1日がイースター(復活祭)にあたります。イエス様の誕生を祝うクリスマスは毎年12月25日で固定祝日ですが、イースターは毎年日にちが移動します。それはなぜ?と思う方、村上までお問い合わせください。
最近、商業的なイベントのひとつとして「イースター」という言葉が街で聞かれるようになりました。しかし、本来イースターは、人間の罪によって十字架で殺されたイエス様が、神によって復活させられたことを祝う、キリスト教会にとってとても重要な日なのです。
イエス様は、人々の痛み、苦しみに寄り添い、当時「罪人」とレッテルを貼られ、共同体で疎外されている孤独な人々の友となって歩まれました。それゆえに宗教指導者からの反感を買って十字架につけられたのです。不条理としか言いようのない死でした。しかし、十字架で死んだイエスを神が復活させたというイースターのメッセージは、死が終わりではないこと、復活の力によって新しい命に生きる者へと逆転させられる希望を示しています。
4月1日のイースター礼拝では、マルコによる福音書からメッセージを取り次がせていただきます。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16:7)
この言葉は何を語っているのでしょうか。ご一緒に聖書から聴いていきましょう。
教会は地域の皆様に開かれている場ですので、どうぞ気兼ねなくいらしてください。歓迎いたします。
なお、教会は皆様と一緒に聖書を読み、神様から生きる勇気と励ましをいただいて共に歩んでいきたいと願っています。イースターに限らず、教会のプログラムにどうぞお気軽にご参加ください。お待ちしています。
祝福を祈りつつ。
村上 千代
1949年、栃木県日光市(旧 今市市)に生まれる。東京下町、準大手の学習塾で講師として20年勤務。50歳のとき、召命・献身。西南学院大神学部編入学・卒業。新潟栄光(現、主の港)・室蘭・逗子第一の各教会にて牧師として奉仕。今年4月より牧師奉仕を一旦中断し、充電中。今、読書三昧の楽しい毎日。愛唱聖句「一粒の麦」(ヨハネ12:24)。趣味は、読書・家庭菜園。家族は、妻、子ども2人・孫娘1人。
栗ヶ沢バプテスト教会発行
Vol. 14 2017年10月号
「『わたし』のもとに」
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。私が以前仕えていた教会にて、ずっとこの言葉を表看板に書いていました。ある時、一人の男性が訪ねてきて、でもその相談は実に深刻な内容で、結果的に「すみません、お助けできません」と言うしかなかったのです。するとその男性は「なんだ、看板に、『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。』と書いているのに、嘘っぱちだ!」と足から塵を払うように帰って行ってしまわれました。
その出来事を受け、私はこの言葉を看板に書くことに躊躇を覚えるようになりました。人を躓かせるぐらいなら最初から掲げない方が良い・・・そんな思いにもなりました。そんな経験、つまり他人の力ではどうしようも助けようがない事柄、折角教会に来られたのに、何も力になれないもどかしさ、その無力感にさいなまれました。その方との最後に交わした言葉「祈っています」という一言が、とても空しく感じられました。私は落ち込み考えました。「教会って何だろう? 祈りって何だろう・・・」と。
私たちが「この人なら話せる」と信頼を置ける人というのは、どういう人でしょうか。一人ひとりが抱える重荷を下すところ、それは一体誰の前に、いや、誰の前だから下せるでしょうか、今回はそのことを考えてみたいと思います。また、私たちが教会に来て、何に気付かされ、そして何を頂いて帰るのか、・・・このことについても一緒に考えてみたいと思います。有名な御言葉です。「神は、その( )をお与えになったほどに、世を愛された。( )を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。この( )に入る言葉は何でしょう。それは唯一無二なる答えです。今回の集会を通して、この答えを共に受け止めて頂けましたら幸いです。
吉田 真司 相模中央キリスト教会牧師
世界中の人々が『平和』を求めています。
理由はどうあれ、一度、戦争が始まれば、悲しく、痛ましい出来事が次々と起こり、多くの尊い命が失われます。だから、『平和』を壊してはいけないのです。
今、時代は混沌としています。私たちは『平和』を実現するために、どんな『平和の種』を蒔こうとしているのでしょうか。それは本当に『平和の実』を結ぶのでしょうか?
●牧師 山田 幸男