【神の宝物】申命記7:6−11
宝探し・・・。そう、人生はある意味で宝探しのようなものかもしれません。人生を輝かせる宝物。これがあるから人生は良かったと言える、そんな宝物。美術品や骨董の類ではないことは誰もがわかっています。もっと人生論的なもの。でも、そんな人生の宝物って何でしょう。懸命にひたむきに注いできた仕事? 家族? いやいや、培ってきた自分の信念や人生哲学? 違う違う!教会生活と兄弟姉妹の交わり・・・。「わが宝はなんぞや」確かにこれは人生の重大な問いに違いありません。
しかしそんな宝探しに悩めるわたしたちに、反対の角度から呼びかけてくれる声があります。「あなたは、わたしの宝の民である」という神の声です。わたしのことを「宝物」と呼んで慈しんでくださる神のまなざしです。それも、わたしに相応の価値があるからではなく、この貧しさを、この愚かさを、承知の上で尊んでくださり、神さまの重大な働きを託してくださる御心があるのです。
人生の深い主題は、「宝探し」にあるのではなく、「神の宝物とされた喜びに応えること」の中にあるのです。
●10月9日週報巻頭言 吉高叶
【モーセ、墜ちる】 民数記20:1-13
シナイ山の麓で、「金の子牛事件」を経験し、うち砕かれた民であったはずです。それなのに、イスラエルの民はくり返し不平と疑いの誘惑に晒されていきます。神と民の狭間に立ち続けたモーセも、さすがに疲れ果てていました。「誘惑」は、彼の疲れた魂に襲いかかります。モーセの精神が崩れてしまうのです。
今日の「メリバの水」は、民の不平を描く場面という点では、他の同様の記事と変わりがないように見えます。しかしこの場面では、神がモーセの罪に怒り、その結果としてモーセが約束の地に入れないことを宣言されてしまう箇所なのです。いったい、どこにモーセの罪があったというのでしょうか。
「反逆する者らよ。聞け。この岩からあなたたちのために(わたしが)水を出さねばならないのか。」こう言って、杖を二度、岩に打ちつけるモーセ。このモーセの言葉と行為には、もはや神ではなく自分が民の救い手であり、自分の力を民に誇示しようとする思いが、瞬間的に現れてしまったものでした。怒りと疲れによって傲慢にさらわれてしまう。人間の悲しさと罪深さを物語っています。
●10月2日 週報巻頭言 吉高叶
「偶像」について
人間が、自分の目的(たとえば、願望や不安の解消など)のために神をつくり像を刻む、これが偶像崇拝です。
「像を刻む」とは、まさにイメージを彫りつける行為ですが、単に木や石を彫って造ることだけを意味するのでなく、「枠組みを決めてしまうこと」や「形にして、解るようにしてしまうこと」なのです。このようにして彫りつけられ、設置されて誕生する神がいます。人間は、その神のもとを訪れては頭を垂れます。その頭を礼拝行為はたいへん敬虔で信心深い姿に思えますが、根本的には、神の力の範囲・効能・目的を、人間側が限定づけてしまっている、たいへん不遜な姿だと言えます。私たちが、時に注意を払わねばならないことこそ、敬虔を装った傲慢な宗教心のことです。
このように、神と人間の欲望との関係が逆転現象を起こしてしまうことを、聖書では「罪」と呼んでいます。これが放置されていくとき、「神崇拝」が逆に人間の欲望を達成する装置になってしまい、悲劇の種となります。この御し難い人間の本性をどうすれば良いのか。それが聖書のテーマでもあります。
●9月25日週報巻頭言 吉高 叶
【静まって、主のわざを拝す】
後ろから迫りくる残虐なエジプト軍。行く手を海に阻まれ、絶体絶命の恐怖におののくイスラエルの民。「出発すべきでなかった!」「奴隷の方がましだ!」「戻りたい!」騒ぎ立つしかないおののき。持って行き場のない苛立ち。押さえられない怒り。それらが恨みの飛礫(つぶて)となって、モーセに襲いかかる。
「静まって、主の御業を見よ!」モーセの杖が天を指し、民が天を仰いだとき、あろうことか、海は割れ、乾いた地が現れ、道ができたのだった。
「静まれ!」これこそが、危機の中で聞くべき言葉、なすべき業であった。
3.11東日本大震災から6ヶ月目の節目を迎えた。未だに見つからない遺体。思うように進まない復興。収束できない原発。広がり続ける放射能の影響。「早くなんとかして!」「責任者はだれ!」「どうしてくれるんだ!」「どうなってしまうんだ!」 私たちは、いま、狼狽えている。悲しさと、恐ろしさと、怒りと、焦りとで、騒ぎ立っている。
無理もない。無理もないが、その中で静まろうではないか。神の慰めと、神の御業を求めて、祈ろうではないか。 (出エジプト14章より)
●9月11日週報巻頭言 吉高 叶
【「出発」への出発・ふたたび】出エジプト記3:1-12
エジプトの宮廷で育ったモーセは、常に自分のアイデンティティーに苦しんでいました。エジプトの王子として教育を受けながら、しかし自分の身体にはヘブル人の血が流れているからです。その葛藤が、大変な事件を引き起こしてしまいます。ヘブル人奴隷に対して、あまりに残酷な扱いをするエジプト人を殴り倒し、死なせてしまったのでした。
謀反の罪に問われたモーセは、エジプトを追放され、ミディアンの地に流れ着き、そこで出会った族長の娘と結婚し、イスラエルともエジプトとも無関係な、のどかな人生を送っていきます。
ところが、迷子の羊を探して進入したホレブの山中で、モーセは神の召命を聞くのです。神は、彼に「エジプトで苦しむ民のために、おまえが指導者となって、民族脱出作戦に取り組むように」命じるのでした。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗るこの神は、父祖たちを「出発する人生」へと招いたように、いま、ふたたび、イスラエルの民全体の「大出発」のために、ミデアンから出発するようにと、モーセにチャレンジするのでした。
●9月4日週報巻頭言 吉高 叶