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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-11-27 10:41:44 (1315 ヒット)

                 【夢を見、幻を仰ぐ魂を】
「かみ食らういなごの残したものを、移住するいなごが食らい、移住するいなごの残したものを、若いいなごが食らい、若いいなごの残したものを、食い荒らすいなごが食った。」                                      ヨエル1:4
これでもか、これでもか、と言わんばかりに災いが降りかかり、完膚無きまでに倒され、再生の手がかりを何一つ持てないでいる自分たちの姿を、イスラエルは「いなごにやられた大地」に喩えました。しかし、誰も見向きもせず、手を着けようとはしない荒れ地を、愛と憐れみをもって保有し続け、そこに臨在し、うめき彷徨う魂を知ってくださる神さまに気づいた時、神の民は顔をあげ、主をほめたたえる心と、夢を見る魂を取り戻したのでした。
私たちが試みの中にあった時、実は、変わることなく誠実であられた神さまを思い出しましょう。神さまの柔和と愛とに、一切を負っているにもかかわらず、神さまを忘れ、高ぶった苦悩をふりかざして反発している私たちであることを悔い改めましょう。
主よ。あなたのしもべを憐れんでください。そして、もう一度、夢を見、幻を仰ぐ魂を、私たちに与えてください。
●11月25日 週報巻頭言  吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-10-20 19:29:56 (1492 ヒット)

                 【栗ヶ沢・バプテスト・教会】
栗ヶ沢バプテスト教会という名称そのものに、すでに三つの重要なファクターが織りなされています。どれ一つが欠けても、私たちは私たちではありません。
<栗ヶ沢>には、他のどの地域でもなくこの地域で種が蒔かれ、この地域で芽を吹き、この地域で茎となり花を咲かせてきた、具体的で固有の歴史と表情が刻まれています。
さらに、その固有の歩みは、キリストを主として生きる<教会>というコミュニティーであり、しかもその身体のつくりかたは<バプテスト>という特性を重要なモデルにし、またものさしにして生成してきたのです。
キリストが頭であるならばボディーはどうでも良いというのではなく、教会であるならば場所はどこでも良いという抽象的な存在ではありません。この地域で、キリストの教会を、バプテストの組み立て方でつくろうとした結実として、栗ヶ沢バプテスト教会は存在しています。
ここに、私たちは具体的に存在し、私たちは、無機質な<会員>としてでなく一人ひとりが、無比な存在としてこの教会に加わっているのです。その全てをもって栗ヶ沢バプテスト教会なのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-10-09 21:00:35 (1589 ヒット)

                  【各個教会と協力伝道】
「バプテストは各個教会主義だ」とよく言われます。その通りです。でもそれは決してそれぞれの教会が独立独歩で行けばよいとか、お互いに不干渉を徹底すべきだという意味ではありません。各教会が、意志決定において自ら責任を果たし、その教会の会衆の合議によって運営され、その決定を他の教会(や他の誰か)が覆す権限は持たないという「会衆主義」を別の言い方で表現した言葉なのです。
人間が自立するとは、自分が自分だけで生きることができないことを了解し、他者への依存、他者との共生においてしか立つことができないことを、わきまえ知ったときに成立するのです。つまり、「自立」は、常に「連帯への認識」を内包しているのだと言えます。 私たち栗ヶ沢教会も、多くの先行教会の伝道への情熱と祈りと献金によって産み出された教会です。この教会が、まだ胎児であったときに、すでに祈りの連帯はこの胎児の血脈となっていたのです。そして「大人」になった今も、私たちは諸教会との連携なしには立てない存在なのです。このことを忘れた瞬間に、私たちは幼児に逆戻りしてしまうのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-09-30 16:27:50 (1311 ヒット)

                【祝福に満ちた人間像を求めて】
“喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、高ぶらないで思いを一つにし、貧しい人々と交わり、悪に対して悪で報いず、できれば、せめて自分は、誰に対しても平和に暮らしていこうとする。”
青年たちが本日の礼拝のために選んでくれたロマ書12:15-18には、こうした、ひとつの人間像が描かれていると思う。そして、その人間像はすみずみにいたるまで、他者と共に生き、他者と共に在り、他者との交わりに生きる姿で貫かれている。このような「交わりに生きる人間像」を照射した御言葉に目をとめ、「青年がつくる礼拝」の主題聖句に掲げられた青年たち。私は心から素敵だと思う。
健康なものだけが共にいるのでなく、赤ん坊から老人まで、闘病する者、しょうがいを持つ者、疲れを味わう者たちも一緒にいて、共に歩んでいる教会という共同体には、世の中のあらゆる同質的なコミュニティーやサークルが、決して持ち得ない不思議な「教育力」がある。水が、必ずしも高いところから低いところに流れるだけではないことを、教会の交わりは教えてくれる。そのような場所から、新しい人間像が、生まれ出てくるのだ。
●9月30日 週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-09-16 21:48:38 (1294 ヒット)

                【バプテスト−信仰者の教会】
かつて教会は地域そのものだった。そして、人は生まれながらにして、地域教会の一員とされた。生まれながらにキリスト教徒となり、教会員となった。キリストが自らの命のために何を成し遂げられたのかを、自覚せずとも、感謝せずとも、キリスト教徒になった。だから、キリストの恵みが、人生の動機とはならず生命のバネにならなかった。
バプテストは、そうした無意識、無自覚な「信仰」の在り方と決別した。教会は集められた者の群れ、信仰共同体。だからどうしても幼児洗礼と地域教会制度を拒絶せざるを得なかったのだ。
それは、当時の世界にとってあまりにもセンセーションナルな出来事だった。それまでの世界観を壊し、社会構造を崩す「危険思想」と断じられ、異端呼ばわりされ、弾圧された。それでもバプテストは、聖書が教える共同体の姿を捨てることをしなかった。
間もなく、バプテストたちは、バプテスマを全浸礼でおこなうようになる。キリストと共に死に、キリストと共によみがえる新生の命を表現するために、それがもっとも相応しいと確信したからだ。
●9月16日 週報巻頭言


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