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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-04-05 11:15:20 (1430 ヒット)

『さあ立て、ここから出かけよう』

私たち日本人は「中道精神」を好みます。白黒をはっきり決めるよりも、「灰色の部分」を残して「あいまい」にしておく方が得策と考えます。
政治、経済、宗教その他、日常生活のあらゆる場面に「灰色の部分」が存在します。ところが昨今、その「灰色」が内部告発によって暴(あば)かれ、政治家や音楽家が次々と失脚しています。「灰色(あいまい)」を良しとしたために、結局、自(みずか)ら滅びを招いてしまったのです。
ところで、私たちの信仰の歩みはどうでしょう。信仰生活に「灰色の部分」はないでしょうか。御言葉に従うことを「あいまい」にしておけば、波風は立ちませんが、たいした喜びもありません。いざというときに信仰は何の役にも立たないでしょう。
イエスさまから“我に従え”と招かれたら、私たちは従うか従わないか、YesかNoか、どちらかを決断しなければなりません。
決断が「あいまい」では祝福をつかみそこねてしまいます。「ゲッセマネで祈る」イエスさまに注目しましょう。十字架に向かう直前、イエスさまでさえ、汗と涙を流して、ひたすら祈っています。
立ち上がるために、私たちも、まず祈ることから始めましょう。

●4月6日週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-03-30 20:14:39 (1458 ヒット)

『決断のとき』

12年もの間、病気に苦しめられてきた女性がいました。彼女は群衆にまぎれ込み、
後ろから、イエス様の衣にそっと触りました。するとすぐに出血が止まり、
彼女は自分の病苦が癒やされたことを知りました。普通の奇跡話ならば、
ここでめでたしめでたしで終わるのですが、聖書ではここから本当の奇跡物語が始まります。イエス様はそれに気づかれて、この女性を熱心に探し求められました。
あたかも小羊を探す牧者のように。これに対して彼女は、牧者の呼びかけに応える
小羊のように、イエス様の御前に戻ってきました。呼びかけに応答する決断をして、
真の癒やし、真の救いを得たのです。対照的な態度を取ったのが当時の宗教指導者たる律法学者や祭司です。彼らは、自分たちこそ神様に近い者とのプライドの高さから、
イエス様を受け入れる決断をせず、救いを拒否しました。しかし、本当に重大な決断をされたのは、イエス様御自身です。彼女の決断の前に、彼女の罪、そして私たちの罪を贖うために十字架に架けられる決断をされたのです。このイエス様の御決断に、私たちはどう応答し決断していくのか。私たちの決断如何が問われています。

●3月30日 週報巻頭言 教会員A
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-03-23 21:16:59 (1204 ヒット)

愛は力です

キリストを信じた者には責任があります。キリストを信じていない人々からいつも見られています。品格品性を問われます。日本人は民度(道徳意識や生活規範)が高いといわれています。それなら尚更、普通以上のものを現さないと福音を聞いてもらえません。こんなことを言うと、「牧師さん、それは無理です…」との声が聞こえてきます。

牧師は答えます。「決して無理ではありません。」本気にならないから、「無理だ」と思ってしまうのです。「無理」と思ったときこそ、聖書を開きましょう。

 イエスさまは何と言っているでしょうか。

 イエスさまの答えは、『求めなさい、そうすれば、与えられる』(マタイ7:7)。

イエスさまは決して「無理だ」とは言わない。本気で求め、探し、門を叩けば、神さまは必要なものを与えると宣言しています。問題は私たちの姿勢です。本気になっていますか。

罪を赦された「罪人」のままで良いとして、満足していませんか。その姿は、イエスさまの十字架の意味を知らない人には、「罪人の居直り」に見えたりするのです。悔い改めの祈りを忘れないようにしましょう。謙遜な態度は人の心を動かします。謙遜から生まれる愛には何かを起こす力があります。

●3月23日週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-03-17 11:16:19 (1288 ヒット)

『傷ついて、祈って、癒されて、そして』

本日証しの機会が与えられたことを心から感謝します。私は吃音障害(言葉を話そうとすると脳から舌や肺にうまく信号が伝わらず、声が出なくなってしまう病気)を患っています。挨拶を返せない、電話にも出られない。不自由な生活の中で「言葉は返せないけれど、あなたのことが大好きです」と伝えたい、そう思った私が出した答えは「ずっとにこにこしていること」でした。授業で当てられようものなら、言うべき文字は目で見て分かっているのに息を吸うばかりで過呼吸になり、嘲笑され「予習して来ていない不真面目な奴だ」と誤解されることも数多くありました。しかし、それでもやはり私は人間が大好きで、積極的に人と話すことをやめることができませんでした。この世で心が傷つけられることの大半は人間関係から来ますが、神さまはそんな小さく弱い私を器として選び、この1年間に劇的な恵み −Amazing grace− を注いでくださいました。本日はその体験を、聖霊のおもむくままに証ししたいと思います。

●3月16日 週報巻頭言 笹岡 智子


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-03-10 12:06:04 (1236 ヒット)

美しい門

 先週、名古屋から着任しました。皆さまのお祈りとご配慮に心から感謝いたします。栗ヶ沢教会の“新しい歴史”を、これから一緒に刻んで行きましょう。

 私は牧師として、これまで29年教会に仕えて来ました。ふじみ教会(神奈川)2年、三島教会(静岡)1年[協力牧師]、盛岡教会(岩手)8年、そして瑞穂教会(名古屋)18年です。栗ヶ沢教会は5番目の働き場所です。これまでの歩みを振り返るとき、それぞれの教会での体験によって、未熟な者が牧師となるように育てられて来たことを実感します。経験年数を重ねる程に牧師職の奥深さに驚くばかりです。その一方で栗ヶ沢教会でのこれからの働きは、私の牧師としての“集大成”とすべく、決意を新たにしています。

《…わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。…キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい…右手をとって彼を立ち上がらせた。…すると、たちまち、その男は…歩き出した。そして…神を賛美し…境内に入って行った。》(使徒368)

聖書にある出来事を現代の“美しい門(栗ヶ沢教会)”で、皆さまと一緒に体験して行きたいと願っています。最愛の妻・好子共々よろしくお願いいたします。 

●3月9日週報巻頭言 山田 幸男




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