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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-07-21 18:55:39 (822 ヒット)

✣ 放置された歴史の清算 ✣

    ダビデ王の治世のある時期に「飢饉」が3年続きました。現代なら気象条件等からその理由を合理的に説明できますが、これは三千年昔の世界の話です。当時の人々は、「飢餓(国家の災い)」は神の怒りの発露と考えました。ダビデ王が「飢饉」の理由を神に尋ねると、「先代サウル王の犯した罪が未解決」との答えがありました(サムエル下21:1)。
    ダビデの時代から200年程昔、モーセの後継者ヨシュアは、カナン地方統治に際し、先住民(ギブオン人)との間に“和親条約”を結びました(ヨシュア記9章)。先代サウル王はこの約束を破り、命を守るべき人々を傷つけ、危害を加えたのです。これが「神への背信行為(罪)」とみなされました。「罪」を解決するには“償い”が必要です。それでサウル王家の生き残り7人が、先祖の「罪」の代償として処刑された、というのです。
    この話は現代人には不可解です。しかし旧約聖書の世界では、「失われた命は、命で償う」のが正義とされたので、ダビデ王は罪解決のため、当時の正義を貫徹したのです。
    それならキリスト教も同じか、と質問されそうです。…No ! 新約聖書は、“十字架で死んだキリスト”を信ぜよ、そうすればすべての「罪」が赦されて、“新しい世界が始まる”と教えています。

●7月24日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-07-14 18:02:58 (1138 ヒット)

✣ 王子の反逆 ✣

    ダビデ王の子どもたちの間に、とんでもない事件が起きました。長男アムノンが異母妹タマルを辱(はずかし)めたため、彼女の実兄・三男アブサロムは、長男を憎み、羊の毛を刈る祝いの席で部下に命じて兄を殺害した。この事態に父ダビデは怒りました。
    しかし、子どもたちの「罪」を断つ手立てをしなかった。ダビデ王家は“罪の悔い改め”を強制しない教育(子育て)を選んだようです。親が信仰の人なら、子どもは悔い改めるだろう…。王子なら、自然に信仰を持つものだ…。父ダビデも側近も、誰もが、期待しました。でも、それは幻想でした。
    信仰は遺伝しない。親は意識して伝えるべきことを伝えないと、子どもたちは信仰を持つようにはなりません。旧約聖書に記された“信仰の民”の歴史を探ると、次世代への“信仰継承”を怠った時には国家的危機に直面しています。現代も例外ではありません。「罪」は小さいうちに解決しないと、必ず大きな「悲劇」を招きます。
    王子アブサロムは“悔い改め”のないまま、父ダビデの温情に便乗する。自分が王になる準備を密かに進め、ついに謀反(クーデター)を実行します。こうして、王子が抱えていた「未解決の罪」は、すべての国民を巻き込む「悲劇」へ発展します。

●7月17日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-07-07 19:09:30 (1051 ヒット)

✣ ダビデ王の背信 ✣

    イスラエルの王となったダビデは、部下の妻と不適切な関係を持ちます。彼女の妊娠を知ると、証拠隠滅を謀り、彼女の夫を戦争の最前線へ派遣して戦死させました。
    この行為に神さまは怒ります。預言者が“神の言葉”をダビデに告げました。
    「貧しい人が大切にしていた羊を、金持ちが取り上げて食べてしまった。王様、あなたは、これをどう思いますか?」
    ダビデ王は怒りました。
    「私は無慈悲を赦さない。死刑にせよ!」
    預言者はズバリ指摘します。
    「あなたがその人です。」
    この指摘でダビデは自分の罪に気づき、涙を流して悔い改めます(詩編51参照)。
    この話をすると、必ず反論されます。「牧師さん、悔い改めれば何をしても赦されるとは、都合の良い話ですね。」 しかし、私は「そうです。赦されます。」と答えます。駆け出し牧師の頃は、言い切る自信はなかったのですが、教誨師の働きを通して確信しました。刑務所や少年院で受刑者が本気で悔い改めると、人が変わります。むしろ、普通の人は罪意識が希薄なためか、悔い改めが中途半端。悔い改めたつもりになるが何も変わらない。だから「都合の良い話」で終わる。あなたへの問です。

●7月10日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-06-30 19:39:43 (914 ヒット)

✣ 神との絆 ✣

    私たちが「ダビデの生涯」から学びたいことの一つは、“先立つ神の恵み”です。神を信じて従う人に、神は必ず祝福を備えています。もう一つは“罪人と聖なる神との絆”です。罪を抱える人間は、どのように神から罪を赦され、どんなふうに神と強く結びつくのか、そのプロセスです。
    世の中には聖書を読まなくても、信仰を持たなくても、稀(まれ)に素晴らしい生き方をしている人もいます。そういう人から見れば、罪丸出しの「ダビデの生涯」など、とても受け入れられないかもしれません。
    ところが、そんなダビデが、神に選ばれ、神が愛してやまない人物であると、旧約聖書サムエル記は一貫して語っています。
    聖書を読んでいても、信仰があっても、立派というには程遠い者にとって、「ダビデの生涯」は大きな慰めであり、希望です。
    ダビデの生き方に、“神との絆”を深めるヒントがあります。

1) 雑音に振り回されない
    …どんな時も、神の導きを求め、神の声(Go! Stop! Wait!)に必ず従う。

2) 他者を責めない
    …自分の罪を悔い改めて、自分が日々新しくなるように祈る。

3) 礼拝を忘れない
    …嬉しい時も、悲しい時も、神を賛美して生活する。

●7月3日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-06-23 19:56:57 (1013 ヒット)

✣ 神の時を待つ ✣

    「神の計画」が実現するまでには時間が必要です。私たちは、神さまが為さることだから、すぐに実現すると考えますが、そうではありません。神さまは、ご自身に背く者を敢えて選び、声をかけ、悔い改めへ導きます。そして、その人を罪の縄目から解放し、新生させ、神の子どもとして養い育て、手間ひまかけて「神の計画」を実現します。「神の計画」が、いつ、どのように実現するかは、神ご自身が定めています。
    そこで、神の子どもとされた者にとって大切なのは、自分勝手に先走らないこと。謙虚な心で「神の時」を待つのです。待つと言っても、何もしないで、ただノンビリしていればよいのではありません。神さまから示された「小さな御心(神の導き)」に忠実であること、面倒くさいことや、馬鹿馬鹿しいと感じるようなことにも、神さまに仕えるように、真剣に取り組むのです。
    神さまは、「小さな御心」を見落とす僕(しもべ)に、「重大な仕事」を任せません。
    ダビデは、自分を殺そうとするサウル王に対して、《わたしの主君》《主が油を注がれた方である》から殺してはならないと語りました。ダビデはこの時、置かれた状況にも、人の声にも、自分の感情にも振り回されることなく、ただ神さまを一心に見つめています。これこそが、神の子とされた者の「神の時」を待つ姿です。

 ●6月26日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


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