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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-10-17 12:18:59 (1652 ヒット)

✣ この人はできるかぎりのことをした ✣

    ある女性が高価な香油の壺を割ってイエスさまの頭に注ぎました。それを目撃した人々は女性を激しく非難しました。香油を売れば大金を得られるし、そのお金でより多くの人々を助けることができるからです。しかし、女性はイエスさまのためだけにその行為をしたのです。それは、その時、彼女がイエスさまに対してできる精一杯の行為でした。
    この女性と、彼女を非難する人々の姿は、現代人にも見受けられます。それは男性と女性の感覚の違いかもしれません。また、博学な学者先生と浅はかな庶民の違いかもしれません。ある本に、『…いわゆる文化人、評論家と呼ばれる人たちは、女性を非難した人々にそっくりです』とありました。『…評論家をプールサイダーと呼びます。自分は飛び込んで泳ぎもしないのに、プールのそばで泳ぐ人の泳ぎぶりをあれこれ批評する。言葉だけの専門家…この類の人種がかなり多い…』(佐伯晴郎著「明日をめざして」現代説教選集より)。
    ところで、香油を注がれたイエスさまはどんな反応を見せたか。『イエスは言われた。「するままにさせておきななさい…わたしに良いことをしてくれた…この人はできるかぎりのことをした…前もってわたしの体に香油を注ぎ、葬りの準備をしてくれた。」』(マルコ14:6-8)。イエスさまは女性の行為を喜びました。間もなく十字架で死ぬことを自覚していたからです。高価な香油をイエスさまに注ぐ女性。それは行為なき抽象論に勝る。立派な可能性を論じるよりも、素朴な行為を実行する。そこに“神の祝福”がある。

●10月19日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-10-10 20:11:25 (1251 ヒット)

✣ 八重と官兵衛 〜 その愛と赦しの生涯 ✣

    『…人間そのものが変えられる道はどこにあるのか…覚馬の前に現れたのがアメリカ人宣教師でした。覚馬は宣教師を通して聖書の真理に触れます。ここに人間変革の鍵があることを発見するのです。大河ドラマ「八重の桜」の中で、覚馬が八重にバイブル・クラスで聖書を学ぶように薦める場面が出てきました。覚馬は言います。「ヤソ(イエス)の言葉には、恨みや憎しみを超える新しい道があるのではないか」。会津戦争に敗れ、逆賊とされた会津の人々…特に八重にとって会津を滅ぼした薩摩(鹿児島)や長州(山口)に対し、ゆるせない、憎いという思いは消えることなく、心の中で葛藤していました。八重はゴードン宣教師の家に、マタイ福音書を学ぶために一日も休まず通い続けましたが…汝の敵を愛せよという言葉に激しく抵抗します。福音書を読み進める内に、八重はこれまでに体験したことのない慰めをうけます。マタイ11:28“すべて疲れた人、重荷を負う人はわたしのところに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう”…すべての人…の中に八重もいる。
    重荷をわたしに委ねなさいと言うイエスの招きは、新しい人生を開く鍵となりました…。』

●10月12日 週報巻頭言
  (2013/11/30名古屋基督教協議会・公開講演会守部喜雅先生講演記録より) 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-10-02 20:26:53 (1019 ヒット)

✣ 十字架 〜 その愛 ✣

    “ローマの信徒への手紙”の著者パウロは自由な人でした。その自由には特徴があります。福音の本質にかかわることは一歩も譲りません。しかし中心から離れたこと、それほど重要でないことには譲歩します。
    パウロはコリント教会へ宛てた手紙に『…ただ、あなたがたのこの自由な態度が弱い人を罪に誘うことにならないように気をつけなさい』(1コリント8:9)と記しています。キリストを信じた人は、どんなことにも自由です。でも、その自由を賢く用いる知恵を持ちたいのです。パウロは自由を説くだけでなく、自分自身も弱い人々の「躓(つまず)き」にならないように“自制”しました。パウロ流の“愛のあらわし方”のひとつです。「愛をあらわす」というと、誰かに何かをしてあげることを考えるのが私たちの常ですが、パウロのように“自制”する。これも“立派な隣人愛”です。
    私たちは「枝葉末節」にとらわれて自由を失っていないでしょうか。“喜びの福音”を「躓きの石」にしていないでしょうか。自己満足追及に夢中になる…安易な妥協を重ねる…これでは「古い殻(罪)」が硬くなるばかりです。“キリストの十字架”に目を向けましょう。“十字架”と向き合うとき、人は本当の自由を得るのです。

●10月5日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-09-25 23:36:16 (1092 ヒット)

✣ 神に導かれて ✣

    聖書には、あれをするな、これをするなと、口うるさい戒めがたくさん書いてあると誤解されているようです。そんなことはありません。聖書の内容を一言でいえば、人間の「罪の現実」と、その罪に苦しむ者を憐れむ“神の愛”の歴史、その記録です。
    礼拝で取り上げている旧約聖書・創世記の族長物語は、今から3500年から4000年も昔の出来事を伝えています。大昔のお話なのに、現代の私たちに無関係とは思えない、まるで自分のことを言われているような話が続きます。世俗の週刊誌も顔負けの「神の民のスキャンダル」が、あちこちに記されています。すべて人間の「罪の現実」です。そうした悲惨な現実を人々がどのように乗り越えたかを知る。聖書を読む醍醐味のひとつです。創世記の族長たちは「自分の恥」をさらしながら、同時に、“神を深く知る”体験をしている。これは驚きです。
    人が神(キリスト)の方へ向き直ることを、聖書は“悔い改め”と呼んでいます。悔い改めは、一般的には反省することを意味しますが、聖書的“悔い改め”は、ただ反省して小さくなって終わるのではなく、新しい力に満たされて再び立ち上がることです。神の方へ向き直れば、どんな人でも新しい力に満たされます。

●9月28日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-09-18 18:50:04 (1071 ヒット)

✣ 疑心暗鬼の兄弟再会 ✣

    創世記33章は兄弟和解の物語です。これまで何度も読んだ物語ですが、今回はいつもと違うメッセージが聞こえてきました。兄エサウと弟ヤコブは、本当に心の底から和解したのだろうか…。一見、仲直りしたように見えますが、弟ヤコブの「心の壁」はそのまま残っているようにも思えます。「一緒に行こう」「護衛をつけるから」と申し出る兄の好意を、ヤコブは理由をつけて断ります。そして、兄の目の届かない所で新しい生活を始める。兄の顔色をうかがいながら、心の中では兄に背を向けています。
    不思議な体験によって、その名を“ヤコブ(かかとをつかむ)”から“イスラエル(神が支配する)”に改名。でも“自我を砕かれた”にしては「自己主張」が強すぎて、ヤコブを“謙遜な人”とは思えません。
    人は、人生のヤマをひとつ越えると安心して「気持ちがゆるむ」ことがあります。人の気持ちはゆるんでも、神さまの約束はゆるぎません。ヤコブがどうあれ、神さまは変わらない。人の心は変わります。変わらないはずの信仰も、時々、揺れ動きます。
    神さまはヤコブの弱さを承知の上で用います。弱さ丸出しのヤコブ。それでも彼は“神が選んだ器”なのです。

●9月21日 週報巻頭言 山田 幸男 


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