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集会案内

秋の特別伝道礼拝のご案内

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■主日礼拝  
毎週日曜日 午前10時〜

教会学校
毎週日曜日 午前1115分〜
・幼稚科
・小学科 
・少年少女科  
・青年成人科

祈祷会
毎週水曜日 午前1030分〜
                    午後 730分〜
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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-08-27 11:39:16 (944 ヒット)

             【神に向かってのみ、魂は静か】
 ダビデは崖っぷちに立っています。愛臣たちの裏切り、謀反の企て、暗殺の忍び寄り、公然とした悪口、対抗勢力の蜂起。王としての権威もうわべのこととなり、権力も衰退しています。
 この危機の中で、ダビデは、真に向き合うべきものと向き合っています。「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。」詩62:6
 艱難・危難に遭遇して、人は突如として自分自身に立たされてしまいます。それまで、周囲との利害や関係の中で右往左往していたところから、丸裸の自分に、立たされてしまいます。現実の自分を苛むもう一人の自己。現実の自分を攻撃する他者。内から外から突き上げられて、人間は孤独を味わい、深く絶望してしまいます。しかし、その時こそ、人の子らの空しい地平からではなく、それを越えた所から来る助けと結びつくことがを見いだす時を迎えています。
 ダビデは、権力闘争の果てに真の守りの岩なる神と出会い、「民よ、どのような時にも神に信頼せよ」との、王の言葉の核心を得たのでした。
            ●8月22日週報巻頭言 吉高  叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-08-15 11:35:42 (984 ヒット)

                平和のいましめ、いのちの掟
 わたしの祖父は尋常小学校の先生をしていました。大分市の片田舎の学校で美術を教えていました。なんということはない普通の教師でした。しかし、太平洋戦争が激化する中で、教室で子どもたちに向かって語った祖父のたったひとことが、人生を変えてしまいました。「先生は、みんなを、この戦争に、行かせたくない」。
 翌日、その村のおもだった人々が学校につめかけ、「非国民をここに出せ!」「アカ教師を辞めさせろ!」とさわぎました。同僚たちからも白い目で見られ、ののしられました。祖父は、学校を追われ、村を追われました。
 親戚のコネをたどって、ずっと離れた村の小学校の教師になりましたが、あっという間に「事件」の噂は広がり、ふたたび職を追われ、そこにも住めなくなりました。まもなく祖父は、失意と憔悴のあげく、血を吐いて倒れ、死にました。家庭科の教師をしていた祖母への弾劾も執拗で、心労がたたって、彼女も間もなく死にました。
 幼かった私の母は、叔父の家にひきとられましたが、その村で幼い少女を待っていたのは、「非国民の子」「アカの子」という誹りといじめでした。叔父たち一家からも、おまえの父ちゃんは「どえらいことをしでかしてくれたもんだ」と辛くあたられ続けたのです。 これも戦争です。戦争の悲惨の一つの場面です。母は、魂の奥底に、いまでもこの「戦争」を引きずって生きています。
 ものごころついた私に母はよく言いました。「人間はときとして残忍だ」「人間の心には恐ろしいものがある」「戦争は、それを呼び起こす」「かのう。戦争は、ぜったいに、だめだ!」。 そして言いました。「神さまを信じなさい。神さま以外のものに絶対にひれ伏してはならない。」「それは、まちがいのもと。」
 母の言葉は、命にかかわる「いましめ」として、私の心に刻まれました。そして、未だに、私が何事かを考えるときに、心の中で「きーん」と鳴る音叉のような振動を残し続けています。
                 平和祈念の日に 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-08-15 11:31:12 (897 ヒット)

               イエスキリストにつながる道
 誰もが、平和を望んでいます。しかし、世界平和は来ていないし、過去のものではないのです。  戦前の日曜学校の教案を見ると、始めから戦争賛成と言っているのではなく、主キリストの十字架を中心として争いのない世界を目指す提案をおこなっていました。それでも戦争への歩みの中で、教会は、沈黙し、さらに協力の働きに転じていったことを知ることにもなりました。なぜ教会は、沈黙の中にいたのだろうか? 当時の「普通」の中に、埋もれることが、差別や、抑圧を回避できる方法と考えたのかもしれないとも思うのです。戦後のわたしたちは、主日礼拝だけでなく、「生の全境域」における主告白を目指し、教会教育に取り組んでいます。
 「平和の福音」を、告げ知らせるために、この世にキリストがおいでになった。この出来事を受けて教会は、曖昧にすることをやめて、真昼のような光の中で、非暴力と絶対的平和主義へと歩むしかないと語り続けるのです。そのために、教会は、十字架の恵みの応答として、平和宣言を採択し、イエスキリストにつながる道を、共に歩むものとされていくのです。
       ●週報巻頭言  神学生 武林真智子


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-07-26 16:22:16 (902 ヒット)

                 【愛が灯った!】
 今日は夏期学校の子どもたちとの合同礼拝。イエスさまに出会って、暗い心に光り(愛)が灯った人々の嬉しい物語を受けとめていきます。
 礼拝後の教会学校分級では、ヤコブ書1章から、「試練と忍耐」とについて考え合います。初代教会の人々にとって(そして現代を生きる私たちにとっても)、信仰とは「待つ生き方だ」と言えるでしょう。神の国を待つ。神の義があらわれるのを待つ。真の解決を待つ。そして救いを待つ・・・。
 しかし、人間は待てないのです。待てない時、人は思い煩い、怒りを深め、自らの運命を呪い、神を捨てようとします。「待っていて何になる」というサタンの誘惑と、自分の想いを実現したい欲望とが手を結び、深い罪の苦悩に陥るのです。
 待つ生き方に立ち続けるために、私たちは、信じること、祈ること、交わることを必要とします。待ち続けることを確信するために何よりも御言が必要です。そして、神は、神を待ち続ける人生のために良い贈り物、完全な賜物をくださいました。それこそが愛、それこそが主イエス様です。
                     ●週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-07-18 18:11:17 (916 ヒット)

                【寝床ごと主のもとに】
 主イエスのいる家にたくさんの人々が集まっていました。自らの関心と足とでこの家やってきました。自己決定的し、自分の足でこられる「健常」な人々です。そこに、床に寝かされたまま運ばれてきた人がいます。友人たちの計らいと労力によってようやく主イエスの前にたどりつきます。自己決定が難しく、自分の足ではい行けないハンディを負うています。しかし、この家の中にあって、主イエスの救いの宣言は、この寝たままの男に投げかけられました。彼にこそ救いが与えられたのです。
 そうです。私たちは、救い主の前に、寝床ごと運ばれていけば良いのです。受け身のまま、世話を受けながら、みっともなく感じる姿のまま、あの方と出会えば良いのです。いや、むしろ、自分で決め、自分の足で、キリストのもとに進み出ているかのように私たちが思うとき、私たちは忘れているだけなのです。実は自分が「寝床」にしばりつけられている不自由な者であるという事実を。私たちは「寝床ごと」主イエスに出会い、救われるのです。
                        ●7月18日週報巻頭言


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