✣ 正しい知恵とは ✣
そのとき、洗礼者ヨハネは獄に捕われていました。ユダヤの領主ヘロデ・アンテパス(ヘロデ大王の息子)の私生活を糾弾したからです(兄弟の妻との不倫…マタイ14:1-12参照)。
獄中のヨハネは、宣教活動を開始したイエスさまに大きな期待を寄せていました。イエスさまは、ユダヤを支配するローマ帝国と戦い、選民イスラエルを解放するに違いない。洗礼者ヨハネは、イエスさまが「社会革命家」として行動するときを待ち望んでいました。
ところが、イエスさまは重い病の人を癒し、汚れた霊にとりつかれた人を正気に返すなど、一人ひとりの生活に目をとめることに熱心で、「民衆蜂起」をしない。イエスさまは本当に“救い主”なのか…? 洗礼者ヨハネの心に疑いが生じていました。
ヨハネは自分の弟子をイエスさまの所へ派遣します。そして、【来るべき方は、あなたでしょうか。…ほかの方を待たなければなりませんか】(マタイ11:3)と尋ねさせます。
これに対してイエスさまは、一人ひとりを神の前に立たせるために来たこと、一人ひとりに福音を伝えるために来たことを伝えます。
更に、神の方から人に近づいてくださる“新しい世界”が始まることを教えました。
イエスさまは、【わたしにつまずかない人は幸いである】(マタイ11:6)と、洗礼者ヨハネに伝えよと語りました。人の熱心や功徳によって、力ずくで理想社会を実現しようと考えていたヨハネ。彼は挫折します。獄中で惨殺されました。一方、イエスさまは“十字架と復活”によって世の光となったのです。
●2月5日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ だから、恐れるな ✣
マタイ福音書10章は、イエスさまによる12弟子の選任と派遣を伝えています。弟子たちを「この世」へ遣わす前に、イエスさまは【…狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい】(マタイ10:16)と教えました。
この教えは、二千年昔の12弟子だけではなく、時空を超えて、キリストを信じるすべての人を対象としています。福音を受け入れない「この世」へ派遣される“キリスト者の心構え”を教えている、という説もあります。
イエスさまを信じれば、試練も、悩みも、すべて解消…というわけには行きません。イエスさまを信じても、事故に遭うときもあれば、病気になるときもある。直面する課題に怯(ひる)む「私」がいる、これも事実です。
それなら、イエスなど信じても信じなくても同じだ、と皮肉を言われるかもしれません。
イエス・キリストを信じる強みは、一体、どこにあるのでしょうか?
イエスさまを信じる人は、ごたごたが起きても、それに振り回されない平安を持ちます。悩みを抱えながらでも、朽ちない希望を持ち続けることが出来ます。見える世界がすべてではないことを洞察する知恵に満たされます。問題解決の糸口を粘り強く探し求めて、“光(復活の出来事)”を見出します。
イエスさまは、弱さ丸出しの弟子たちに、【最後まで耐え忍ぶ者は救われる】(10:22)と語り、だから【恐れるな】と、三回繰り返しました(10:26、28、31)。“イエス、我と共に在り(インマヌエル)”の信仰だから恐れない。
●1月29日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 御国への招待 ✣
イエス様は、貧乏人や病人など律法を守れない弱者に福音を宣べ伝えておられました。そのため当時の指導者層から敵視されていたのです。ところがある時、驚くべき事件が発生しました。イエス様を敵視しているはずの指導者の一人が突然イエス様の前にひれ伏し、懇願して言ったのです。「私の娘がたった今死にました。しかしおいでになって、娘の上にあなたの手をおいてください。そうすれば娘は生きるでしょう。」この人は社会的地位も名誉も恥も外聞もかなぐり捨てて、愛娘のためにイエス様の御前に身を投げ出したのです。
イエス様がその懇願に応えて歩みを進めている最中、またしても事件が発生しました。12年もの間、出血がとまらず、その汚れのため神殿で祈ることも許されず、病気治療のために全財産を使い果たしてしまった女性が、後ろから、そっとイエス様の衣に触れたのです。
汚れた者が聖なる方に触れるなど、大変な冒涜でした。一方は高い権威と社会的な重責を負い、人々の尊敬を集める指導者。もう一方は社会的にも宗教的にも抹殺された女性。当時の常識からは大きく逸脱した二つの事件が一連の出来事としてまとめられるという、聖書の中でも特異な箇所です。
しかもこの異常な出来事は、マタイ・マルコ・ルカの三福音書において、全く同じ構成で、記載者それぞれの視点から取り上げられており、この二つの事件の一貫性が強調されています。本日はこれら異常な出来事を通して私たちに語られている福音をご一緒に味わいたいと思います。
●1月22日 週報巻頭言 教会員A
✣ 求めよ、探せ、門をたたけ ✣
イエスさまは、弟子たちに、集まって来た人々に、このように教えました。
【人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい】(マタイ7:12)。
これは“黄金律(Golden Rule)”と呼ばれ、キリスト教倫理の原則として広く知られています。私(イエス)がここにいる。だからあなたがたは、人からして欲しいと思うことを自分から率先して行え、というのです。
これに対して、「孔子の教えにも『自分がして欲しくないことは、人にするな』とある。イエスも同じことを言ったに過ぎない」と言う人もいます。
さて、“黄金律”と『孔子の教え』は、同じことを言っているのでしょうか?
私は、まったく違うと思います。孔子の教えは、人として、当たり前のことです。でもその当たり前が、当たり前に出来ない。それが人間の現実です。しかし少し我慢するか、ここが踏ん張り所と腹を据え、歯をくいしばって頑張れば、出来ないことはありません。
ところが、“黄金律”は“イエスさまの十字架と復活”を土台とする“福音(喜びの訪れ)”です。“聖霊の力”によって実現されます。
イエスさまを信じて、イエスさまに従い、イエスさまと共に生きる人が体験する幸い、それが“黄金律”です。“I am OK, You are OK”という新しい世界が始まるのです。
●1月15日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ あなたがたは幸いである ✣
キリストの十字架に目を向けると、見えて来るものがあります。神に従う“ひたむきな姿勢”、小さい者を尊ぶ“濁りのない愛”、更に神の子が低い所へ降る“気高い精神”です。
キリストに従うとき、私たちは「罪人」でありながら、十字架の“絶対恩寵”によって“義なる人”とみなされます。ここでいう“義”とは、「神の小羊なるキリスト」と共にある「我」を意味します。“義なる人”には、見分ける知恵が神から与えられます。
例えば、お金で「家」は買えても“家庭”は買えない、「薬」は買えても“健康”は買えない、「地位や名誉」と“尊敬されること”は別物だということをしっかり見分けます。
見分ける知恵が働くと、自分の足元にある「偽(ニセモノ)・ギ」を“義(ホンモノ)・ギ”に変える選び取をします。この選択には必ず試練が伴います。そこで“義なる人”は、祈らずにはいられなくなり、「主よ、助けてください…我を憐れみたまえ…」と、一所懸命、祈り始めます。これが《義に飢え渇く人々》の姿です。キリストは、《幸いだ…その人たちは満たされる》(マタイ5:6)と、力強く語りました。
他者はどうあれ、「私は“神の義”を選ぶ」という人を神は放っておきません。《幸い》はその人のものです。なぜなら、キリストが来て下さるから。 約束された《幸い》は時空を超えて“義なる人”を満たします。
●1月8日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男