黙想・東日本大震災の中で

投稿日時 2011-05-10 16:21:22 | カテゴリ: メッセージ

  東日本大震災の中での黙想。−終わりなき始まり−

 4月23日の朝日新聞の夕刊に次のような記事が小さく掲載された。千葉市に住むエレナ・マツキちゃん(7歳)が、「どうして日本の子どもは怖くて悲しい思いをしなければならないの」とビデオレターでローマ法王に尋ねた。法王ベネディクト16世は、「わたしにも分からない。自問している。答えはないかもしれない。ただ十字架にかけられたキリストも罪なくして殺される苦しみを味わっておられた。神はいつもあなたのそばにいるのです。」と答えた、という記事だ。つまり「わからない」ということだ。
 「どうして、なにゆえに、この苦しみは起こったのか。」この問いに対して、誰も一般的に答えることなどできない。そして、一般的な答えは、無い。
心ない人は「天罰」と言う。イエスを私たちに与え、罪人を赦し受け入れる神が「天罰」をくだすのだろうか。「教訓を与えるために」と言う人もいる。もちろん、教訓にしなければならないことはたくさんあるだろう。しかし、人間が教訓を学ぶために、それらの苦しみは起こったと言うことはできない。「苦しみにあったのは私に良いことでした」と詩編の詩人は語り、ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と語る。しかし、これも自らの告白として心打たれる言葉ではあるが、他者の苦しみの意味や、一般的な苦しみの意味についての答えにはならないのではないか。そう。一般的な答えに行き着くことはきっとできないのだろうと思う。しかし答えが無いのではないと信じたい。一人ひとりが、その苦しみに喘ぎながら受けていくもの、出会っていくものの中に、それはあると。

 新聞やTVでは、あのとき、生と死の明暗がどのように分けられてしまったのかというドキュメントが流されている。読むたびに、観るたびに心が痛み涙がでる。たとえば、娘と二人の孫が乗り込んだ車が、自分の目の前で津波に呑まれていくのを階段の柱にしがみつきながら見送るしかなかった祖母の慟哭。それに等しい経験に突っ込まれながら生きのこった人々、つまり犠牲者の家族・縁者の方々にのし掛かっている、ある種共通の、そして極めて根源的な苦しみがあるように思わされる。
その一つが、「愛する者の死、このあってはならない苦しみを、人はいかにして受容していくのか」「そもそも、それは受容できるのだろうか」という問いである。そしてもう一つは「生きのこったことへ『罪責』と、生きていくことへの『なぜ』」という問いである。「どうして自分が生きのこり、隣にいた人は死んだのか。」「そこに理由はあるのだろうか。」答えは見つからない。「自分が死ねばよかった。愛する娘に代わって、孫たちに代わって、年老いた自分が死ねばよかった。」自分より若い家族を亡くした年長者の多くは、そのように、生きのこったことに罪責の念を抱いておられる。自らも被災者・被害者であるにもかかわらず、背負わされてしまう罪責感・罪意識。この罪意識は、盗みを働いたとか人の道にはずれたとかそれとは異なり、「自分の存在そのものがはたしてゆるされるのかと」いう存在論的な罪責感だと言えるかもしれない。
「私は生きていて良いのだろうか・・・。」

 しかし、思うに、これは被災者たちに特別な問いなのだろうか。もしかしたら、人生において一人ひとりがどこかでいずれ必ず問われる問題ではないのだろうか。
今回、私たちは1万5000人に迫る犠牲者たちの大量死の事実の前に、「悲惨」「悲劇」を強烈に感じ、そして「不慮の死」「不条理な死」をとても強く印象づけられている。たしかに、こうした大災害による死は特別のことのように感じるし、こうした大量死はそう起こってたまるものではない。しかし、死とは多くの場合、人間にとって「不慮の死」、「思いもかけない死」なのではないだろうか。
 クレーン車に轢かれて亡くなった6人の小学生たちも、あまりにも突然の不慮の死だ。ユッケを食べて亡くなった4人の人々も、思いもしなかった死を身に受けた。そのような交通事故、中毒事故にしても、突然の不治の病の宣告にしても、それらは人間にとって「不慮」の出来事であり、そうしたことのすべてがわかり、思うままに人生を設計することは人間にはできない。そして人間は、必ず死に、どうしても、愛する者との別れを経験しなければならない。だとすると、いま、衝撃的なかたちで犠牲者たちの家族が直面している生と死のテーマは、私たち人間すべてにとっての生と死のテーマでもあるのではないか。
人生には、思いがけないこと、不条理としか思えないことがある。だから苦しみ、途方に暮れる。死に直面することは避けられず、それゆえにこそ深く問われてしまう。だから私たちは、こうした苦悩を、被災者特有の苦しみとして対象化せずに、共に問い続けるべき問いとして、どうしても向き合わねばならない自分の問題として、一緒に呻いていかねばならないのではないか。そして人生には、根源的に「生と、死と、ゆるし」の問いがあることを知り、その問いの前で頭を垂れ、そのことにまつわる「言」を求め続けなければならないのだ。そのような問いを次第に忘れていったり、心なく一般論的に説明したりするのでなく、一人ひとりが、自分なりに「答え」と出会っていくことができるようにと祈りながら、自分の「生と死とゆるし」に想いをいたすこと。それが、生きるものどうしとしての「つながり」なのではないのだろうか。
そして、そこにおいて、わたしたちは「生と死とゆるし」につながる主イエスを見いだすのである。

 主イエスの十字架にいたる生涯を見つめるとき、彼が背負っておられたものこそ、人間の「生の苦しみ」と「生きていくゆるし」の問題ではなかっただろうか。「なぜこんな苦しみがあるのか」、そして「わたしは生きていていいのか」、この問い、この呻きを背負いながら、そこに慰めとゆるしと祝福を注ごうとすることではなかっただろうか。十字架の出来事は、神がこの「苦悩と死の人生」を味わい賜うことであり、神が「わたしが生きることをゆるし」、わたしを「生きることへと招く」という出来事なのだ。
「父よ、なにゆえ」と絶叫するイエス。
「父よ、彼らをおゆるしください」と祈るイエス。
「父よ、御手に委ねます」といって息を終えるイエス。あの十字架で死ぬ主イエスが、釘付けられていて動かすことさえできなかったその腕に抱いていたものこそが、人間の生の苦悩と死、生きていくことの赦しだった。そんな十字架が、私たちとつながっているからこそ、十字架とつながって起こった復活もまた、私たちとつながっていくのだ。
 私たちは、悲嘆の中に沈み込みそうになる。しかし、この嘆きと悲しみの中にこそ、「飼い葉桶と十字架」の意味が隠されているし、この嘆きと悲しみに関係するために主イエスは十字架につけられたのだ。そして、そこに光を与えるために主が復活されたのだということをおぼえ、私たちは、主イエスの復活の光の中で、その光に犠牲者たちを委ねて、追悼し、記憶し、いたんでいこう。

 私の住む表の町内会の看板に、真っ赤な鮮烈なポスターが貼られている。日本赤十字社の募金のポスターだ。レスキュー隊のいでたちに身をつつんだ男女数人が、力強く正面を向いている。そしてその下には、大きな文字で、「人間を救うのは、人間だ。」とある。初めてみたとき、あまりの衝撃に、掲示板の前で、10分間も立ちつくしてしまった。
 「いま、人間の協力が必要だ!」「救難のために、人間の力を集めよう!」ならわかるけれど・・・。人間にとって「救いとは何か」が、まさに根源的に問われているところで、しかも、それこそ人間の奢り高ぶった「文明」が暴走し、人間を苦しめ続けている真っ最中に、「人間を救うのは、人間だ。」・・・。何を言いたいにしても、私には、どうしてもこの言葉は使えない。
ようやく遺体安置所で本人確認をし、やっとの思いで火葬をし、しかし遺骨を納める場所はなく、体育館の避難所スペースの枕元に置いたまま、怒濤のように襲いきた「死」を想い、あまりにもかぼそい「生」をたぐりながら、今を耐えている人々の傍らで、いったい誰が「あなたを救うことができる」と言えるだろうか。「人間を救うのは、人間だ。」そのはなはだしい傲慢から離れ、まずは一緒に途方に暮れながら、「神よ、救いとは何でしょうか」「主よ、救いをください」「主よ、しかし、あなたの慈しみと憐れみを信じ、あなたの救いの手の中に、すべての人々の命をお委ねします」と、うなだれて生きるしかないのではないのか。それが、「弔う」ということであり、それが自分のためにもしなければならないことなのではないのだろうか。

 しかし・・・。しかし、「三日目の朝」を共に迎えさせてくださいと、私たちは祈りたい。「終わりの場」が「始まりの場」につくりかえられてしまった「三日目の朝」を。「終わった」としか思えない場面、「もう何もしてやれない」とうなだれる場面で、始まった「いのち」があり、始まった「かかわり」があったあの出来事を、私たちにも与えてください、と。
葬られた場所が、人間が、新たに生きる場所になる。これが福音、これが希望。そして、わたしたちは、この「復活」に与るのだと宣言され、招かれている。普通、始まりがあれば、必ず終わりがある。ところが、「始まる」ということが決して無くなってしまわない「始まり」があるという。そんな終わりの無い始まりが、あるのだと、主の復活は呼びかけてくれている。
 確かに死は一つの終わりだ。多くの犠牲者たちにとって、その家族にとって、死は大きな何かの終わりだ。その「終わり」を悲しみ、怒り、喘ぐ。そして悼み、弔う。しかし、それでもなお、その大きな何かの終わりの場所から、生まれてくる始まりがある。どんなに、人間の心と想いが、そして人の世の経験が、「もう始まらないぞ」と首を横に振っても、終わりの場面で始まろうとする何かがある。墓の中よりイエスをよみがえらせたことを通して、神が人間を照らしている復活の光だ。その復活の光は、十字架と墓をたどらねばならなかったが、それゆえに、終わる場面を始まる場面に変えられたのだ。
 人間は苦しむ。人間は別れなければならないときがある。しかし、人間のいのちは「終わり」に閉ざされるのではない。いつも、始まりに招かれ、始まりに包まれ、始まりに向けて造られていく。
信じよう。聞かされているこの「終わりなき始まり」を。この光の中で嘆き、この光の中で弔い、この光の中でつながり、この光の中で祈っていこう。命が、新しい人生が、新しい生活が始まっていくようにと。終わりの場から、なにごとかが始まっていくようにと。

                                                                  了





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