礼拝説教「来る(きたる)べき方はイエスか」 マタイによる福音書 11:2-6
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週報巻頭言「来る(きたる)べき方はイエスか」
「来(きた)るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」これは、牢獄の中に入れられたバプテスマのヨハネの問いかけです。
獄中にあるヨハネのもとには、ナザレのイエスの噂が、漏れ聞こえていました。その際に、これまで自分が信じてきたことと、今自分が経験していることとの間に大きな「ギャップ」を、ヨハネは感じていました。イエスが真のメシアであり、その方が来られているのであれば、すべての問題は解決してよいはずです。あらゆる悩みから解き放たれ、自らの涙は拭われてよいはずでした。ところが、そう信じてきた自分は、今「牢獄の中」にいるのです。
なぜ、キリストの先駆者である自分がこのように獄中で苦しまなければならないのか。自分の信仰は本当に正しかったのだろうか。このまま、イエスをキリストと信じ続け、キリストに賭けて生きていってよいのだろうか。そのような迷いと疑いの中で、ヨハネはイエスのもとに使いを送りました。そして冒頭の質問を投げかけたのです。いったい、イエスはどのような意味で「キリスト」(=救い主、メシア)なのでしょうか。本日は、この問いに答えるかたちで聖書から、聞いてゆきます。
●12月11日 第3アドベント礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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