礼拝説教「主の晩餐への招き」 マタイによる福音書 26:26-30
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
週報巻頭言「主の晩餐式を考える」
主の晩餐式は、洗礼(バプテスマ)と並んでプロテスタントの教会で執行される、二つの礼典の中の一つであります。カトリック教会では礼拝の中心に置かれ、「聖体拝領」と呼ばれる秘跡(サクラメント)として位置付けられています。
しかし、プロテスタントの教会は主の晩餐式を「礼典」と呼び、「サクラメント」とは呼びません。これは、「神による救済は人間のおこないによるのではなく、信仰のみによる」という使徒パウロの教え(ローマの信徒への手紙、ほか)から、晩餐式の執行そのものを救いの条件とは考えていないからです。
ただ、私たちにとって主の晩餐式が、洗礼と並んで目に見える救いのしるしであることは否定できません。特に晩餐式は洗礼式と異なり、教会員全体がこれに参与し、パンとぶどう酒を「分かち合う」出来事であるとともに、これを繰り返しおこなうことで主の十字架と復活を想起する記念の出来事でもあります。この主の晩餐式にあずかることにどのような意味があるのかを、マタイによる福音書の聖書箇所から、共に考えてみたいと思います。
●3月27日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
|