✣ いのちの水 ✣
1980年代半ば、エチオピアで干ばつによる大飢饉が起こり、世界中から支援の手が差し伸べられました。1997年に、わたしは、日本のNGO(非政府組織)が取り組む農村自立支援の働きを視察し、電気も水道もない地域に井戸を掘る活動の現場を訪れたことがあります。水を汲みにくるのは女性の仕事。水の入った非常に重い水がめを頭にのせて、また30〜40分歩いて家に戻るのです。
ヨハネによる福音書4章に登場するサマリアの女も、遠い道のりを歩いて水を汲みにきたのだろうかと想像します。サマリア人の中で疎外されていた彼女は、誰にも会わないですむよう、正午ごろに水を汲みにきました。彼女は、ユダヤ人から、サマリア人から、二重の侮蔑にさらされていました。イエスから「水を飲ませてください」と言われた時、誰にも声をかけられることのなかった彼女は驚きます。それに、ユダヤ人とサマリア人との間には対立があり、ユダヤ人男性がサマリア人女性に水を乞うなど、ありえないことだったからです。彼女が差し出した水を飲んだイエスは、今度は、ご自分が差し出す「いのちの水」に目を向けるよう彼女を促します。物質的な水は、命を維持するために無くてはならないものです。でも物質的なものだけで、神との関係、人との関係が断絶されたところに真の幸せはないのです。
●1月12日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
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