✣ 失望のただ中に ✣
父親のヤコブに寵愛されていたヨセフは、兄たちの妬みと憎しみゆえにエジプトへ売られ、異国で奴隷にされ、彼の境遇は一変した。そればかりか、ヨセフは、彼を買い取った宮廷の役人で侍従長のポティファルの妻に陥れられて、奴隷の生活から、さらに投獄という苦難を味わうことになった。奴隷でありながら、主人であるポティファルに目をかけられて状況が好転したかに見えたのであるが、彼は再び奈落の底へと突き落とされたのだ。理不尽な監獄の生活を余儀なくされた彼は、今度は監守長の信頼を受けるが、先の見通しは立っていない。ヨセフの度重なる苦難の現実に対して、神は無言である。
今日の物語には、「主がヨセフと共におられた」という言葉が4回繰り返されている(39章2、3、21、23節)。それが語られるのは、神がまさにヨセフの行く手をさえぎり、理不尽な状況のただ中においてである。失望のどん底に置かれ、主に見放されたとしか思えぬ状況のただ中で語られている。ヨセフは、監獄で監守長の信頼を受けていても、彼の置かれた状況は、先の見えない不安や失望の続く日々なのではないだろうか。しかし、神が共にいないとしか思えないところこそ、「神が共におられる」その場所であることをこの物語は示している。
●7月21日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
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